日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「目からウロコ」 
聖書   : 使徒言行録9:1-22 
年月日  : 2019-6-9 
特記事項 : ペンテコステ礼拝 
 サウロと言う人物が、尚(なお)もイエス様の弟子達を迫害(はくがい)しようと意気込(いきご)んでダマスコ
にあるユダヤ教の会堂(かいどう)に向かっていた時のことです。1節に「尚も」と書いてある
ように8章でサウロは、イエス様への信仰の熱いステパノの殺害(さつがい)現場に立ち会って
います。「イエスを神の子、メシア・救い主と信じている連中(れんちゅう)は、神様を冒涜(ぼうとく)して
いる」とサウロは確信(かくしん)していたので、男女構(かま)わず迫害することに、ためらいはあり
ません。でもダマスコに近づいた時、突然(とつぜん)、天からの光に照らされて彼が倒(たお)れると
「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」と言う声がしました。驚いて「主よ、
あなたはどなたですか」とサウロが尋(たず)ねると、意外(いがい)な答えが返ってきました。
 「私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、
あなたのなすべきことが知らされる」(5-6節)。
 サウロに語りかけたのは、十字架の死から復活(ふっかつ)して天(てん)に昇(のぼ)られたイエス様でした。
そしてサウロが迫害していた信仰者のことを、イエス様は「私(わたし)を迫害している」
と言われた。つまりイエス様を信じる信仰者1人1人と共に、イエス様がおられる。
信仰者の中には、復活して天に昇られたイエス様が、共におられるのです。
 サウロは、律法(りっぽう)を厳格(げんかく)に守るファリサイ派の教育を受けて育ったユダヤ教徒(きょうと)です
から、十字架で死んだイエス様が復活して天に昇ったこと、イエス様が神の子だと
言うことも全く信じません。すべてが、弟子達や信仰者たちの都合(つごう)の良い作り話だ
と思っていたはずです。でも今、「私はあなたが迫害しているイエスである」と言う
声を、サウロはハッキリ聞いてしまった。彼に同行(どうこう)していた者たちは姿の見えない
声を聞いて動揺(どうよう)しています。また、いきなりサウロの目が見えなくなったことに、
同行していた者たちも、サウロ自身(じしん)も驚(おどろ)き、深(ふか)い畏(おそ)れに包(つつ)まれました。
 なぜサウロは、イエス様の声を聞いた時から、目が見えなくなってしまったので
しょう。私達は日頃(ひごろ)、「自分の目で見えるものが確(たし)かだ」と思って生活しています。
あるいは「自分が経験(けいけん)して、学んできたこと、自分がやってきたことが正しい」と
思って生活しています。世間(せけん)の常識(じょうしき)や習慣(しゅうかん)なども、それに含(ふく)まれるでしょう。
 しかし神様の御子イエス様が、この世でなさったすべては、世間の常識や習慣、
人の理性(りせい)や認識(にんしき)、体験をはるかに越(こ)えていました。人が日頃、心に思い描(えが)いている
信仰の在(あ)り方(かた)とか、信仰の正しさを、イエス様はすべて粉砕(ふんさい)して、破壊(はかい)する巨大(きょだい)な
スケールで、今、サウロに襲(おそ)いかかったのです。
 サウロが生まれてから、これまで積(つ)み上げてきたすべての知識、すべての経験、
すべての確信が、心の中でバベルの塔(とう)のように、ガラガラと崩(くず)れていくのを感じて
いたはずです。復活のイエス様の声を聞いた時に、サウロは1度、死にました。
自分がどこにいるのか、全く検討(けんとう)もつかない深い死の闇(やみ)の中にサウロは放(ほう)り
込まれた。だからサウロは、何も見えなくなってしまった。何も分からなく
なってしまったのです。人に手を引かれてダマスコに行き3日間、サウロは目が
見えず、何も見えないまま、何も飲めず、食べられない状態でした。3日間、彼は
まさしく死んでいたのです。皆さんは、こうした衝撃的(しょうげきてき)な経験をお持ちでしょうか。
自分の経験や常識、自分の正しさ、自分が頼りとしていた知恵や能力(のうりょく)、そういった
ものが何一つ通用(つうよう)しない死の暗闇に放り込まれる経験です。今までの自分が通用し
ない。完全な行止まりの暗闇。それはまさに自分の死ですよね。
 イエス様はサウロに語ると同時に、またダマスコにいた弟子のアナニアにも語り
かけていました。そしてアナニアに、「ユダの家で祈っているサウロを訪(たず)ねて、彼に
手を置(お)いて、目が見えるようにすること」を告(つ)げたのです。
 思いもよらないイエス様の言葉に、アナニアは反論(はんろん)しています。迫害者サウロの
悪名(あくめい)は弟子達の間に、広く知れ渡(わた)っていたからです。だからアナニアは、サウロを
助けるよう命じたイエス様に、サウロの悪事(あくじ)を多くの人が知っていることや、彼が
信仰者を逮捕(たいほ)するための権限(けんげん)を祭司(さいし)長(ちょう)たちから受けていることも告げて、反論して
います。サウロに近(ちか)づけば、自分が逮捕されるかもしれない。そんな危険(きけん)人物(じんぶつ)です。
それでもイエス様は、アナニアに命じています。15節です。
「行け。あの者は異邦人(いほうじん)や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるため
に私が選んだ器(うつわ)である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないか
を、私は彼に示そう」。
 イエス様を信じる弟子達、信仰者を迫害し、殺害していたサウロを、イエス様は
選んだ。イエス様の御名(みな)を世界各地(かくち)に広めるために、またそのために苦しみ
働く器として、イエス様は迫害者サウロを選んだ。他にも立派(りっぱ)な人はたくさん
いるのに、なぜサウロなのか?なぜイエス様は、危険なサウロを選ぶのか?サウロ
だけじゃない。イザという時、イエス様を1人残して逃げ出す卑怯(ひきょう)な弟子なんかを
イエス様はなぜ選ぶのか?この疑問(ぎもん)は、そのまま私達に返(かえ)ってきます。
 「私(わたし)があなたがたを選んだ」とイエス様は弟子達に言いました(ヨハネ15:16)。
なぜ教会に来て、イエス様を信じるようになったのか。それはイエス様が選んで
くださったからです。イエス様に仕える器として働くため、自分で選んで決めた
からではなく、イエス様が選んでくださったから、私達は今ここにいます。私達が
立派で善人だからではない。人が考え抜いた決断など、あらゆるものに先立(さきだ)って
「神様の恵みの選び」が、ただ私達に与えられているからです。
 アナニアがイエス様に言葉に従って出かけて行き、聖霊(せいれい)に満(み)たされるようにと、
サウロに手を置くと、彼の目からウロコのようなものが落ちて、目が見えるように
なりました。この後、サウロは洗礼を受け、食事をしています。「目からウロコ」と
いう諺(ことわざ)は聖書から出ています。多くの情報(じょうほう)が目から入(はい)ります。「目で確(たし)かめた」
と言っても人の目には色々(いろいろ)な偏見(へんけん)や憶測(おくそく)が貼(は)りついています。サウロもそうでした。
しかし目からウロコが落ちた時、これまで自分が正しいと信じていたことが
間違(まちが)いだったと気づき、サウロは神様の真実(しんじつ)の世界を初めて覗き見ることが
できた。十字架で死んだお方が誰で、何のために死んだのか。自分のような
極悪人を赦してくださる神様の愛の真実、この真実に殉じたイエス様の救い主としての姿を、サウロは初めて見ることができた。この時、死の闇の中に、
3日間いたサウロは、神様の愛と赦しの真実に向けて復活させられました。これは
すべて神様から与えられた聖霊(せいれい)の働(はたら)きによるものです。
 私達の目は、心や体とつながっています。当然、目に貼りついた偏見や憶測は、
心や体にも貼りついています。それらは「自分だけの正しさ」という頑(かたく)なな鎧(よろい)と
なって、私達の全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)を覆(おお)いつくし、神様の真実から私達を遠ざけてしまいます。
これまでサウロは、「神様の正しさ」ではなく、「自分だけの正しさ」のウロコを、
自分の目や心、体に貼りつけて、イエス様を憎(にく)んで信仰者を迫害する「ニセモノの
正しさ」に生きてきました。でも聖霊が与えられ、ウロコを落とされた今、もはや
今までと同じではいられなくなりました。
その証拠に数日後(すうじつご)、サウロは「イエス様が神の子、メシアであること」を人々に
宣(の)べ伝えており、かつてのサウロを知るすべての人を驚かせています。この人こそ
イエス様の救いを世界(せかい)各地(かくち)に伝えて、新約(しんやく)聖書(せいしょ)に多くの手紙(てがみ)を残(のこ)したパウロです。
 パウロでさえも「自分こそ世間や神様のことを良く知っており正しい。自分こそ
目が見えている」とうぬぼれていました。でも聖霊を受けたことで目からウロコ
落ちて「今までの自分がいかに盲目(もうもく)だったか」を痛感(つうかん)します。神様の真実の前に
私達は本当に盲目です。良く見えていると思っている人こそ、実は、見えて
いない。
 「私の思いは、あなたたちの思いとは異(こと)なり、私の道はあなたたちの道と異なる
と、主は言われる。私の口から出る私の言葉も空(むな)しくは私の元(もと)に戻(もど)らない。
それは私の望むことを成(な)し遂(と)げ、私が与えた使命(しめい)を必(かなら)ず果(は)たす」
(イザヤ55:8,11,)。
 「自分こそが正しい」と確信(かくしん)していたパウロに聖霊が降り、自分の思いとは全く
異なる神様の思いを知りました。「イエス様を迫害していた罪深い自分が、今度
はイエス様の御名を世界に告げ知らせる証人、イエス様のための器と変えら
れて神様の思いのまま、神様が願うままに、全く新しく生かされて行く」。
周囲(しゅうい)が驚くほど全く新しい生き方、御心に適(かな)った新しい生き方が、聖霊によって
始まります。これはパウロだけに起きたことではありません。聖霊によって、誰に
でも起こることです。イエス様を悲しませる生き方ではなくて、神様、イエス様が、
喜(よろこ)んでくださる生き方に向かって、聖霊の力で誰もが変えられ、新しく生かされて
行きます。だからこそ自分の目に映(うつ)るものが、本当に神様の真実なのかどうか知る
ためにも、毎週の礼拝の中で、聖霊によって、自分の目から、自分の全身全霊から、
「手垢のついたウロコ」を、ことごとく落としてもらう必要があります。
自分勝手(じぶんかって)なウロコ、自己(じこ)保身(ほしん)のウロコを、聖霊によって落とされ、素(す)っ裸(ぱだか)にされた
目と心と体で、新しく神様と向き合い、神様の言葉に聴(き)きなさい。そして神様が命じる
まま、今度は聖霊を着て、パウロのように、また無数(むすう)の信仰者たちのように、神様から
遣わされている場で、時が良くても悪くても、イエス様の証人、イエス様のために働く
聖なる器とされて生き抜きなさい。聖霊に支えられながら、神様に愛されて、赦されて
いる真実の中を生きなさい。「イエス様に選ばれているあなたの人生」を、聖霊と共に、
日々、積み上げて生きなさい。

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