日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「主が私を通して働かれた
聖書   : ローマ15:14-21    
年月日  : 2021-2-7

14節で、パウロはローマの教会の人々が、神様に満(み)たされた善意(ぜんい)と知識(ちしき)によって、
互(たが)いに戒(いましめ)め合えると確信(かくしん)していると言っています。つまり「あなたたちは神様
の御心に従(したが)い、互いに戒め合い、主のものとして働(はたら)けるはずだ」と言って
いるのです。こう言うのもパウロ自身(じしん)が自分の意志(いし)ではなくて、ただ神様の恵みに
よって「主のもの、キリストと福音に仕える者」とされて、働いているから
です。
 パウロはこれまでも、ローマの教会に厳(きび)しい内容(ないよう)の手紙を書いていたのでしょう。
でもその目的は(16節)、ローマの教会をはじめ多くの異邦人(いほうじん)が救われるために、
キリストに仕える者となり、そして神様の福音(良き知らせ)に仕える祭司(さいし)の
務(つと)めをするためでした。祭司の務めとは、神様に「聖なる献(ささ)げ物」をすることです。
つまりパウロは、異邦人が神様の福音と出会うことで、キリストを信じると
されて、更に彼らが聖霊の働きにより、神様の喜ばれる聖なる献げ物となる
ようにと、仕えて働く祭司なのです。だからパウロは、ローマの教会だけでなく、
コリント、フィリピ、エフェソなど、異邦人の町を訪(おとず)れては伝道してきましたし、
20節以下でも分るように、これからも異邦人伝道をしていきます。
 外国で伝道する。今から2000年前です。外国に行くことが命がけの時代です。
外国で商売をして大(おお)儲(もう)けするためではない。自分の私利(しり)私欲(しよく)とか自己(じこ)保身(ほしん)、自分を
誇(ほこ)るためでもない。まだ本物の神様と出会っていない異邦人が、神様の救いの良き
知らせ・福音を聞いて、キリストを信じて救われるように、またパウロのように、
一足先に救われて信仰者とされた人たちに続いて、異邦人も「神様が喜んでくだ
さる聖なる献げ物、神様のもの、神様に心から仕えて、生きる者」とされる
ため、ただそれだけです。
しかし考えて見ると不思議(ふしぎ)です。「自分や家族が救われるだけで良いよ」と普通は
思います。それなのにわざわざ危険(きけん)を冒(おか)してまで見知らぬ国に行き、見知らぬ人に
福音を語って、キリストを信じて救われるよう、なぜ命を賭(か)けて働くのか。これは、
人間的な理屈(りくつ)では説明(せつめい)がつきません。しかも17節で「私は神のために働くことを、
キリスト・イエスによって誇りに思っています」と、パウロは言い切っています。
パウロも私達と同じ人間なのに、投獄(とうごく)されたり、ムチ打たれたり、各地で苦労(くろう)しな
がらも、なぜ誇りをもって異邦人伝道を続けられたのか。なぜそんな生き方ができ
たのか。
 正直(しょうじき)に言うと、神様またキリストに忠実(ちゅうじつ)に従って、この世を生きていく人は、
この世では笑われるし、バカにされます。人によっては「あんた騙(だま)されている」と
親切(しんせつ)にアドバイスしてくれたりします。キリストに従って忠実(ちゅうじつ)に生きる信仰者ほど、
この世では、人一倍(ひといちばい)、苦労(くろう)して、誤解(ごかい)され、人々からは見捨(みす)てられ、財布(さいふ)の中身(なかみ)は
スッカラカンで、心も体もキズだらけになります。それはなぜか。
 18節。「キリストが私を通して働かれたこと以外(いがい)は、あえて申(もう)しません」。
キリストがパウロを通して、パウロを使って働いていた。目に見える働き
手はパウロだけど、内側(うちがわ)からパウロを動かし、働いていたのは、キリストで
した。そのキリストは、この世で、どのような生き方をなさったか。神様の御子で
ありながら、自分の欲得(よくとく)のためには働かなかった。様々なサタンの誘惑(ゆうわく)を退(しりぞ)けて、
神様の御心にのみ従って生きて働いてきた。そして最後は、傷(きず)だらけ、血まみれの
体で十字架で死んだ。救い主なのに。神様の御子なのに。十字架から逃げることも
できたのに。しかしこのキリストの犠牲(ぎせい)があったからこそ、すべての罪人が、罪を
赦されて、神様のもとに招(まね)かれ、救われる幸(さいわ)いをいただけるようになったのです。
このキリストが、パウロの中で働いておられた。だからキリストのように、
またパウロも傷だらけ、血まみれの体になっても、それでもなお多くの人に
福音を語るため、苦難(くなん)の人生(じんせい)を歩(あゆ)むことを拒(こば)まなかった。実際(じっさい)パウロが受けた
数々(かずかず)の苦難が、2コリント11:23以下に、具体的(ぐたいてき)に並(なら)べられています。
18節のパウロの言葉。「キリストが私を通して働かれた」とは、キリストの
ように傷だらけ、血まみれの姿(すがた)になっても、それ以上の恵みをパウロが日々、
体験(たいけん)し、実感(じっかん)している言葉です。そこには、キリストが御心のために自分を
生かし、動かし、用(もち)いてくださっている喜びにあふれています。
18節後半~19節前半で「キリストは異邦人を、神に従わせるために、私の
言葉と行(おこな)いを通して、またしるしや奇跡(きせき)の力、神の霊の力によって働かれ
ました」とパウロは言っています。パウロを通して、偉大(いだい)なキリストの力、神様の
霊の力が、働いていた。パウロはそのことを邪魔(じゃま)しなかった。自分の見栄や欲(よく)得(とく)で、
キリストの力、神様の力を歪(ゆが)めたり、誇ったり、自己(じこ)宣伝(せんでん)に利用(りよう)しなかった。
小さい時、プールで初(はじ)めて水に浮(う)くことができたのは、全身(ぜんしん)の力を抜(ぬ)いた時です。
力を抜いて、自分の体を水の浮力(ふりょく)にまかせて、水の浮力を受けるだけ。力を抜いて
受身(うけみ)になったら、水につかっていた体が、プカプカ浮きました。
同じように、パウロも、自分の力を抜いて、ただキリストの力、神様の霊の
力に頼(たよ)って、信じて、受けとるだけ。キリストの力、神様の力に、すべてを
まかせて生きてきたはずです。これが「キリストが私を通して働かれた」と
いうことであり、「キリストの力、神様の霊の力の恵みを、全身で受け取って、
信頼(しんらい)して生きる」ということなのでしょう。
 このパウロの生き方は、地上で多くの困難(こんなん)を抱(かか)えながら生きている私達信仰者に
良いヒントを与えてくれているように思えます。私達は精一杯(せいいっぱい)、生きていますが、
自力(じりき)でできることは年々(ねんねん)、限(かぎ)られてきます。せっかく信仰者にされたのですから、
自分で頑張(がんば)らなくていい。私達に信仰を与えてくださったキリストの力、神様の霊
の力に心から信頼(しんらい)し、自分のすべてを任(まか)せて、預(あず)けて、生きれば良い。私が中心に
なって、柱(はしら)になって、リキんで生きるのではなくて、キリストが私の中心になり、
神様が私の柱となって私を生かしてくださる愛の力に、救いの力に信頼して
良い。自分をキリストに、神様に、丸ごと委(ゆだ)ねて良い。私達はただ神様から、
いただくだけ。キリストに対(たい)して、私達は受身(うけみ)のままで良い。
私達はキリストから、神様から、恵みを与えてもらうしかない「カラッポ
の器(うつわ)」のままで良い。自分の思いで、ゴチャゴチャつめこんでしまったら、
せっかくの恵みが入らなくなってしまう。
だから私達は、キリストからも、神様からも愛されて、満たされることで
生きる「最高に恵まれた、幸いな、カラッポの器」のままで良いのです。
思い出してください。私達はただキリストの恵みを受け、神様の恵みをいただく
だけで、赦され、愛され、生かされていることを。そして信仰者として、この世で、
キリストのための器として、神様の器として、用いられていることを、思い出して
ください。その時、この世のものさしでは測(はか)れない、豊かな天の恵みを受けている
自分を見出すでしょう。これに目覚(めざ)めたからこそ、パウロは、どんなに困難(こんなん)な時
でも、キリストが自分を通して働いてくださることを、何より強く求めて、
生きました。
そしてパウロは、かつて自分が、教会の迫害者(はくがいしゃ)だったことを忘(わす)れてはいません。
しかし過去(かこ)に犯(おか)した大きな罪があるにもかかわらず、キリストも、神様も、
大胆(だいたん)にパウロに働きかけて、「神様との和解の道・キリストの救いの道が、
すべての人に開かれているという良き知らせ・福音」を各地(かくち)で宣べ伝えさせ、
パウロを通して開拓(かいたく)伝道(でんどう)を次々(つぎつぎ)と成(な)し遂(と)げていきました。
 各地で、キリストの福音を宣(の)べ伝えていたパウロですが、20節「キリストの名が
まだ知られていない所で、福音を告(つ)げ知らせようと、私は熱心(ねっしん)に努(つと)めてきました」
と言っています。そしてこのパウロの願(ねが)いは、まさしく私達に手渡(てわた)されています。
日本では、キリストの救いを知らない人が大勢(おおぜい)います。そして頑張(がんば)れない自分や、
弱い自分を責(せ)めて、命を縮(ちぢ)める人が多くいます。しかし若(わか)くて経験(けいけん)が足(た)りなくても、
年をとって体力(たいりょく)がなくても、病気(びょうき)などで寝(ね)たきりであっても、キリストが、弱い
私達を通して働いてくださる。私達の足(た)らない、乏しい言葉と行いを通して、
キリストが自(みずか)ら働いてくださる。
弱く小さい私達ですが、でも私達を通して働かれるキリストの愛の力、命の
力は限りなく豊かで力強い。だから私達は、自分の力を頼りにしなくて良い。
自分の弱さを責(せ)めたり、嘆(なげ)いたりしなくても良い。
キリストが私達を通して、力強く働いておられるから、私達をまた多くの
人を「神様のもの。愛されて、生かされている者。救いの希望をもつ者」と
して、最後まで面倒(めんどう)を見て、育て上げてくださいます。
 

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