日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「主に献げる」  
聖書   : ルカ2:22-38
年月日  : 2020-1-5
特記事項 : 新年合同礼拝
   
イエス様が誕生(たんじょう)して約(やく)1ヶ月が過(す)ぎた頃(ころ)、マリアたちはイエス様を抱(だ)き、神殿(しんでん)に
行っています。律法(りっぽう)の定(さだ)めによって最初(さいしょ)に生まれた子供を神様に献(ささ)げるためです。
「すべての初子(ういご)を聖別(せいべつ)して私に献げよ。イスラエルの人々の間で初めて胎(たい)を開(ひら)くも
のはすべて、人であれ家畜(かちく)であれ、私のものである」(出エジプト記13:1)。本来、
すべてのものは神様の所有(しょゆう)であり、神様のものです。それらを神様は人々に貸(か)し与(あた)え
てくださっています。そのことを忘れないために、最初に生まれたものは人であれ
家畜であれ、神様に献げることで「今、私が手にしているすべては神様のもの
だ」と言うことを、人々は心に刻(きざ)みます。
そこでマリアたちも、最初の子供であるイエス様を神様に献げに来たわけです。
しかし神様に献げても「人の初子は必(かなら)ず贖(あがな)わねばならない」(民数記18:15)とさ
れていました。神様に献げるとは、いけにえとして命を献げるのですが、子供の命(いのち)
を奪(うば)うことはできません。そのため神様に献げた子供の命を贖い金を支払(しはら)って贖う
(買い戻(もど)す)よう律法(りっぽう)は定(さだ)めています。マリアたちが献げたのは山鳩(やまばと)1つがい、または
家(いえ)鳩(ばと)のヒナ2羽でした。これは、定(さだ)められた贖い金を払えない「貧(まず)しい人が献げる
いけにえ」(レビ記5:7)でした。つまりイエス様は貧しい家庭の子供として生まれ
たということです。
 日本でも、神社などで生まれた子供のお宮参(みやまい)りをしますが、マリアたちが神殿に
イエス様を抱いて連(つ)れて行ったのとはかなり意味(いみ)が違(ちが)います。イエス様は神殿で
「神様のもの」として献げられ聖別されて、たった2羽の鳩の命で買い戻さ
れて(安い!)、マリアたちの手に預(あず)けられたのです。
 マリアたちが行ったエルサレム神殿には、シメオンと言う老人がいました。彼は
信仰深い正しい人で、聖霊が彼に「メシアに会うまでは決して死なない」と告げて
いたので、シメオンは毎日、神殿でメシアが来られるのを待ち続けていました。
そしてマリアたちが幼子を贖う「いけにえ」を献げようと神殿に来た時、ついに
シメオンは見つけたのです。彼は幼子を腕に抱いて、神様を讃えて言っています。
「主よ、今こそ、あなたはお言葉どおり、この僕(しもべ)を、安らかに去らせてください
ます。私はこの目で、あなたの救いを見たからです。これは万民(ばんみん)のために整(ととの)えてく
ださった救いで、異邦人(いほうじん)を照(て)らす啓示(けいじ)の光、あなたの民イスラエルの誉(ほま)れです」。
 何年も、いえ何十年も神殿に来ては、メシアにお会いできると信じて待ち続けた
シメオンもすっかり年をとって、神殿に通う肉体的(にくたいてき)な辛(つら)さも重(かさ)なり、何度も神様に
「もう勘弁(かんべん)してください。私の命を取り上げてください」と祈ったはずです。でも
今、シメオンは御言通り、確(たし)かに生きてメシアを自分の腕に抱くことができました。
シメオンはイエス様について「あなたの救いを見た」つまり「神様の救いを見た」
と讃美(さんび)と共(とも)に証言(しょうげん)しました。
しかもこの幼子の中に秘(ひ)められている神様の救いは、イスラエルだけでなく、
国境(こっきょう)も民族(みんぞく)も超(こ)えた万民のための救いであって、今まで救いから遠ざけられていた
異邦人を神様の救いに導(みちび)く光となるのです。その異邦人の中に、21世紀の日本に
いる私達も含(ふく)まれていることを忘れてはなりません。異邦人をも神様の救いに導き
入れる神様からの光・メシアが、預言通り、イスラエルの民の中から出たことは、
イスラエルにとって何にも代(か)えがたい誉れです。
またシメオンと同じように神殿を離(はな)れず、神様に祈り、仕えていたアンナと言う
84歳の女(おんな)預言者(よげんしゃ)もイエス様をメシアと悟(さと)ったのでしょう。神様を讃美しながら、
救いを待望(たいぼう)していた人々に、幼子のことを伝えました。大昔(おおむかし)から預言者が告げて
いたメシア・イエス様が誕生したことで、最早(もはや)「メシア待望(たいぽう)の時」は過(す)ぎ去
って、「メシアによる救いの完成(かんせい)の時」を迎(むか)える、神様の新しい時代に入り
ました。
シメオンは、彼の言葉に驚(おどろ)いているマリアにも、言っています。33節以下。
 「この子は、イスラエルの多くの人を倒(たお)したり、立ち上がらせるためにと、定(さだ)め
られ、また反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身(じしん)も剣(つるぎ)で心を刺(さ)
しぬかれます。多くの人の心にある思いが、あらわにされるためです」。
 生まれたばかりの幼子の体には重すぎる、神様の苛酷(かこく)な定めがつまっていました。
そしてシメオンが預言した通りのことが、後(のち)に現実(げんじつ)となります。
 イエス様はナザレの村で、大工(だいく)の息子(むすこ)として成長(せいちょう)していきますが、ある時を境(さかい)に
神様が1番願っておられること「神様と人を愛すること」を宣(の)べ伝(つた)えながら、それ
をどんな時でも具体的(ぐたいてき)に、身(み)をもって示(しめ)していく者となります。ですから働(はたら)くこと
が固(かた)く禁(きん)じられていた安息(あんそく)日(び)でも、病(やまい)に苦(くる)しむ人を憐(あわ)れみ、イエス様は癒(いや)しました。
あるいは皆(みな)が忌(い)み嫌(きら)って近づかない汚(けが)れた人々と、イエス様は食事を共にしました。
それらはすべて、神様の愛から出たことでした。「何の分け隔(へだ)てもない神様の愛」を
イエス様はどこでも貫(つらぬ)いて行きました。
今まで世間から見捨(みす)てられていた人たちは、イエス様が親(した)しく語りかけて、共に
食事をし、神様について、救いについて、分かり易(やす)く教えてくださること。1人の
人間として自分と向き合ってくださることを通して、神様の愛を実感(じっかん)していきます。
でも、そういうイエス様を真(ま)っ向(こう)から批判(ひはん)したのは、信仰の指導者(しどうしゃ)たち、世間(せけん)では
正しいと言われていた人たちです。なぜ正しい人たちがイエス様を批判したのか。
それは、「神の民イスラエル」と言いながら、実は信仰の指導者自身が神様の御心、
神様の愛から遠(とお)く離(はな)れていた現実(げんじつ)を、イエス様があらわにしたからです。その結果(けっか)、
イエス様は最(もっと)も残酷(ざんこく)な処刑(しょけい)である十字架につけられて死にます。そばで、すべてを
見ていたマリアは、シメオンの言葉通り、母親として、剣で心を刺し貫かれるほど
の痛(いた)みと悲(かな)しみを味(あじ)わうことになりました。
しかしイエス様の十字架の死こそ、シメオンが告げていた「(神様が)万の
ために整えてくださった救い」でした。幼子のイエス様が神殿で献げられた時、
イエス様を贖う(買い戻す)ために支払われたのは、たった2羽の鳩の命でした。
それなのに自業自得(じごうじとく)で滅(ほろ)ぼされても仕方(しかた)がない、罪深(つみふ゛か)い万民を贖う(買い
戻す)ために支払われたのは、メシアであるイエス様の尊(とうと)い命でした。
幼子のイエス様が神殿で主に献げられたように、万民の救いを願う主なる神様
に、イエス様は十字架の上で、ご自分の命、ご自分のすべてを献げてくださ
いました。
礼拝の中に「献金(けんきん)」と書かれたところがあります。「献金なんてもったいない」と
思う方もいるかもしれない。でも私達の命の救いのためにイエス様の方が先に
ご自分を丸ごと、主なる神様に献げてくださったのです。イエス様が命を献げ
てくださったことへの応答(おうとう)の1つとして、私達は献金をお献げしているのです。
 メシア、救い主のイエス様がこの世に誕生されたのは、万民の救いの完成
を目指し、ご自分の命を主なる神様に献げるためです。なぜなら、神様を愛
して、万民を愛しているからです。イエス様は、愛から生まれた主への献げ
ものです。
 このイエス様に愛され、救われていることに目覚(めざ)めて、イエス様を信じた人は、
イエス様と結(むす)ばれ、イエス様と愛によって交(まじ)わり、イエス様に従って生きることを
望みます。イエス様を愛して従う人は、十字架でご自分を献げたイエス様を見上げ、
無関心(むかんしん)に通(とお)り過ぎて行くことはしない。否、できない。だからイエス様が、主なる
神様にご自分を献げたように、イエス様を信じて愛する人もまた自分のすべて
を惜(お)しむことなく、メシア・救い主のイエス様に献げていくのです。
でも私達の主であるイエス様に、自分を献げることは、自分を失(うしな)うことではない。
むしろ逆です。主に献げることで、私達は自分のすべてを主によって支(ささ)えられ、
強(つよ)められ、永遠(えいえん)の命の内(うち)に保(たも)たれるのです。これが分かってくると、「すべて
の時を、主に献げるために生きて行きたい」と願う者とされていきます。
その人のことを「信仰者」と言います。信仰者は、主の中にいます。イエス様の
中で生きています。「愛から生まれた主の献げもの・イエス様」の中で、思いっ
きり愛して生きて行きます。そして信仰者は、自分のすべてを主に献げるために、
主に愛されている自分自身を軽(かろ)んじることを止(や)めて、自分のことを大切にします。
また主に愛されている万民を軽んじることから離れて行きます。
 神様が民数記(みんすうき)の中で、次のようなことを言っておられました(民数記8:18)。
「私はレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子(ちょうし)の身代(みが)わりとして受け取った」。
レビ人はイスラエルの民の中でも、特別(とくべつ)に神様に仕(つか)える者とされた人たちです。
同様(どうよう)に信仰者も「自分を主に献げて、主に仕えるために、すべての人の中から
神様によって、他の人より一足先(ひとあしさき)に選(えら)ばれた者」と言っても、良いでしょう。
そして私達が信仰者とされたのは「すべての人が自分を主に献げるよう」イエス様
と共に願い、愛をこめて働く者として神様に用(もち)いられるためです。
そのために私達は今、こうして礼拝に集められ、礼拝の中で自分を主に献げ、
主に支えられて生きる者として、整(ととの)えられているのです。

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