日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「死んで葬られる」 
聖書   : ヨハネ19:38-42 カテキズム問28
年月日  : 2020-4-5
本日(ほんじつ)は新明解(しんめいかい)カテキズム問28「『死んで陰府(よみ)にくだり』とはどういうことですか」。
答え「イエス様が私達の罪のために、人として本当に死んでくださったと言うことです」。この問いと答えを心に留(と)めながら、御言(みことば)に聴(き)きましょう。
イエス様は神様の御子ですが、人間であるマリアを母として、人間の体をもって
この世に誕生(たんじょう)し、生活してきました。そして十字架につけられ、私達と同じように
イエス様は死にました。ローマ兵(へい)がイエス様の死を確認(かくにん)するために、脇腹(わきばら)をヤリで
突(つ)き刺(さ)したように、イエス様は完全(かんぜん)に死にました。イエス様の命は尽(つ)きて、死体と
なり、十字架から降(お)ろされました。イエス様は、生まれてから死ぬまでを、私達と
同じように体験(たいけん)されました。
 十字架につけられた死体は、神様に呪(のろ)われた最悪の死体です。誰が引き取るのか。
意外(いがい)な人物(じんぶつ)が、イエス様の死体を引き取りました。アリマタヤ出身(しゅっしん)のヨセフと言う
ユダヤ人です。彼はユダヤ人議会(ぎかい)の一員、つまりユダヤの最高法院(さいこうほういん)の議員(ぎいん)でした。
どこかでイエス様の説教などを聞き、イエス様には神様の力が働いていると信じた
のでしょう。38節に「イエスの弟子でありながら」と書いてある通り、彼はユダヤ
人議会の一員(いちいん)だったので、イエス様の弟子だとは公表(こうひょう)しないまま、議会が行う裁判(さいばん)
を受けて、イエス様が十字架に追いやられていくのを、目(ま)の当(あ)たりにしていました。
「私はイエス様を信じていた。私はイエス様の弟子だった。でも私は隠(かく)れていた。
裁判で何の反論(はんろん)もせず黙(だま)っていた」。ヨセフは後悔(こうかい)の思いにあふれて、後日、どんな
バッシングを受けるかも考(かんが)えず、イエス様の死体を引き取りに行きました。
 同じように、イエス様に教えを求めて、こっそり出かけたことのあるユダヤ人の
教師ニコデモが(ヨハネ3章)、イエス様の死体を埋葬(まいそう)するため、高価(こうか)な没(もつ)薬(やく)と沈香(じんこう)を
混(ま)ぜた香料100リトラを持ってきました。100リトラは30キロ以上になります。
イエス様の遺体(いたい)処理(しょり)のため高価(こうか)な香料(こうりょう)をもってきたニコデモも、イエス様を密(ひそ)かに
信じていた1人でした。30キロ以上という香料の重(おも)さから、イエス様を信じていた
にもかかわらず、イエス様が死ぬまで何も言わず、何もしなかったニコデモの後悔(こうかい)が
伝(つた)わってきます。
 アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエス様の死体を香料と共に亜麻(あま)布(ぬの)で包(つつ)んで、
新しい墓(はか)に納(おさ)めました。イエス様が生きている間、彼らは自分達の社会的(しゃかいてき)な立場(たちば)を
守るため、イエス様への信仰を表(あらわ)すことはしませんでしたが、その後、イエス様の
死体を埋葬したことで、彼らの生活は大きく揺(ゆ)さぶられ、苦しんだことでしょう。
 イエス様は墓の中にいます。そして使徒(しと)信条(しんじょう)の告白(こくはく)通り、イエス様は私達人間の
最後と同じ死人の1人となって、墓に埋葬され、陰府(よみ)(死者(ししゃ)の世界(せかい))に降(くだ)りました。
イエス様を埋葬した2人は、安息(あんそく)日(び)に備(そな)えて、それぞれ帰って行きました。まだ
誰も埋葬されていない新しい墓の中には、イエス様の死体だけが置かれています。
イエス様の死体以外、墓の中にも、墓のまわりにも、人は誰もいません。弟子達も
十字架のそばにいた女達もいません。
イエス様の墓を心に浮(う)かべながら「死ぬということは、みんな立ち去(さ)って行って
誰もいなくなることなんだ。墓の中と外では全(まった)く違(ちが)う。どんなに長くて熱い絆(きずな)も
死んだら、全部(ぜんぶ)、断(た)ち切られてしまうんだ」と改(あらた)めて気づかされました。
「墓じまい」と言う言葉を聞きます。墓を守る家族がいないため、墓守(はかも)りの役目(やくめ)を
終わらせる。それほど今、人は墓に関心(かんしん)を持たなくなっています。エルサレムには
イエス様の墓を記念(きねん)する墳墓(ふんぼ)教会(きょうかい)がありますが、それが本当にイエス様の墓なのか
分かりません。確かなことは、どんなに立派(りっぱ)な墓に埋葬されても、人間は死んだら
陰府に閉(と)じこめられ、そこから一歩も出られなくなるということ。陰府に埋(う)もれて
しまうしかないということです。そして何よりも恐ろしいのは、旧約聖書が証言(しょうげん)
しているように、陰府では、神様との関係(かんけい)が失(うしな)われてしまうことです。
 「死の国へ行けば、誰もあなたの名を唱(とな)えず、陰府に入れば誰もあなたに感謝を
ささげません」(詩編6:6)
「陰府が、あなたに感謝することはなく、死があなたを讃美することはないので、
墓に下(くだ)る者は、あなたのまことを期待(きたい)することができない。命ある者、命ある者の
みが、今日の私のように、あなたに感謝し、父は子に、あなたのまことを知らせる
のです」(イザヤ38:18-19)
 これらの詩編やイザヤ書を読むことで、思わされます。
「人が神様を呼(よ)び求(もと)めず、神様への感謝も讃美もなく、神様に真実(しんじつ)を期待(きたい)しないの
なら、その人は生きたまま陰府に降って死者となっているのではないか。その人は
神様を呼び求めるのではなくて、実(じつ)は陰府を呼び求めているのではないか」と。
私達はいつか地上の命を終える日を迎(むか)えます。だから私達には死よりも強い命、
陰府に閉じこめられずに、陰府の扉(とびら)をも撃(う)ち破(やぶ)るほどの強い命が必要(ひつよう)です。
そこで陰府に降り、神様との関係(かんけい)が断(た)ち切られ、神様に讃美も感謝もでき
ない最悪(さいあく)の状態(じょうたい)から、すべての人を救い出すことを神様は決意(けつい)されました。
なぜなら、私達を創(つく)られた神様は、私達が罪のために死んで滅(ほろ)びること、陰府に
降って、埋もれてしまうことを喜(よろこ)ばないからです。そのため神様は、ご自分の御子
イエス様を、私達人間と同じように、否(いな)、最(もっと)も呪(のろ)われた者として、十字架につけて
死なせ、墓に葬(ほうむ)り、陰府の底(そこ)へと降らせました。では、陰府に降ったイエス様を
通して、神様は何をなさったのか。
陰府に降ったイエス様が背負(せお)ったのは、過去(かこ)、現在(げんざい)、未来(みらい)、すべての人の罪と死
です。それらを丸(まる)ごと全部(ぜんぶ)、神様はイエス様と共に死に至(いた)らせました。
神様は、陰府に降ったイエス様を通して、「死を死なせた」のです。死を
死なせて、死を滅(ほろ)ぼしました。その時、陰府の底からイエス様を立ち上がら
せる「復活の命」が生まれたのです。
行き止まりの墓の中で、何の希望(きぼう)もない陰府の中で、イエス様を通して、神様の
偉大(いだい)な命の力、新たな創造(そうぞう)の力が働(はたら)いていました。「死を死なせるほど」強烈(きょうれつ)な
神様の命の力がイエス様に働いていました。その時の神様の命の力の偉大さ、すばらしさの確(たし)かな証(あかし)が、イエス様の「死からの復活(ふっかつ)」なのです。
 陰府に降ったイエス様を通して、神様の偉大な命の力が大(おお)いに発揮(はっき)されている間、
弟子達は失望(しつぼう)、落胆(らくたん)し、アリマタヤのヨセフやニコデモ、そしてイエス様に従(したが)って
来た女達は、深(ふか)い悲(かな)しみに沈(しず)んでいたでしょう。「十字架につけられ、死にて葬られ」、
イエス様に期待(きたい)していた人々は「これで何もかも終わりだ」と思っていたはずです。
ちょうど今、世間(せけん)の人々がウィルス感染(かんせん)防止(ぼうし)のため、自宅(じたく)に留(とど)まっているように、
安息(あんそく)日(び)のため家に留まり、イエス様について今まで勝手(かって)にあれこれ思い描(えが)いていた
人々は、すべての希望(きぼう)を失(うしな)って、イエス様をあきらめていたはずです。
 でもイエス様を通して成(な)し遂(と)げられた死は「私達の死を終わらせるための
死」でした。こんな死は、これまで誰も成し遂げたことがありません。
すべての人の死にたどりつけないと、人の死を終わらせることなど、できない。
すべての人を、死から救うことはできない。だからイエス様は、私達と同じように
死んで葬られ、陰府に降り、しかも最も低い陰府の底にまで降りました。だから
誰もイエス様より下には行けない。イエス様が、最も低い陰府の底に降っておら
れるから、陰府に降ったすべての人にイエス様はたどりつける。すべての人の死に
たどりつける。そしてイエス様の手は、陰府に埋(う)もれている1人1人をガッチリと
つかんでいます。これらはすべて私達を愛して、私達が滅(ほろ)びることを惜(お)しんで
くださる神様から始まった「救いの出来事(できごと)」です。
神様が、心から願(ねが)っておられる「救いを出来事」を成し遂げるためにこそ、
イエス様はご自分のすべてを神様に献(ささ)げ尽(つ)くし、十字架にあげられたのです。
 「モーセが荒(あ)れ野(の)でヘビを上げたように、人の子も「あげられねばならない」。
それは信じる者が皆(みな)、人の子によって永遠の命を得(え)るためである」(ヨハネ3:14)。 
ヨハネ福音書では、イエス様が十字架につけられて死ぬことを「あげられる」と
言い換(か)えています。十字架のイエス様の死によって、「死を死なせる」という
神様の救いが成し遂げられて、絶大(ぜつだい)な神様の命の力と栄光(えいこう)が、世に現(あらわ)れる
ようになるからです。
それゆえ私達は十字架にあげられたイエス様を仰(あお)ぎ見ながら、神様の命の
力と栄光を喜び祝いつつ、心を尽くして讃美します。
「あなたは私の魂(たましい)を陰府に渡(わた)すことなく、あなたの慈(いつく)しみに生きる者に墓穴(はかあな)を
見させず、命(いのち)の道(みち)を教(おし)えてくださいます。私は御顔(みかお)を仰(あお)いで満ちたり、喜(よろこ)び祝(いわ)い、
右の御手(みて)から、永遠(えいえん)の喜(よろこ)びをいただきます」(詩編16:10-11)。

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