日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「我らの主イエス」  
聖書   : ルカ5:1-11
年月日  : 2019-12-1
特記事項 : アドヴェント
イエス様がゲネサレト湖(こ)におられた時、人々がイエス様の教えを聴(き)こうとして、
集(あつ)まってきました。そこでイエス様は岸(きし)にあった2つの舟(ふね)のうち、1つに乗(の)りこみ、
少しこぎ出してから舟を止(と)めると、舟から岸にいる人々に向かって教え始めました。
この舟は、シモンという漁師(りょうし)のものでした。漁師たちは夜通(よどお)しの漁から帰ってきて、
網(あみ)の手入(てい)れをしていたところでした。ゲネサレト湖とは、ガリラヤ湖のことです。
シモンたちは、この湖で魚(さかな)を採(と)って暮(く)らしていた漁師です。
 イエス様は話(はなし)が終(お)わると同じ舟の中にいるシモンに向かって「沖(おき)にこぎ出して
網を降(お)ろし、漁をしなさい」と言いました。イエス様の言葉(ことば)を、恐らくシモンは
快(こころよ)く聞いたわけではないでしょう。シモンたちは魚を採るため夜通し働(はたら)いて、今、
岸に座(すわ)って網の手入れをしていました。しかも夜通し働いたのに、1匹(ぴき)の魚も採れず、
ガッカリしていました。「魚を採るなら、昼間(ひるま)ではなくて、夜を待(ま)つしかないのに、
疲(つか)れている私達に何を言うんだ」。そんな気分(きぶん)でしょう。そこでシモンが言います。 
「先生、私達は夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。
 「昔から漁師をしている自分達が、夜通し苦労して、何もとれなかったんだ」と
シモンは言ったのですが、それをひっくり返すように「しかし、お言葉ですから、
網を降ろしてみましょう」と言った。イエス様に対(たい)して、素直(すなお)な言葉が出た。
これにはシモン自身(じしん)が驚(おどろ)いたはずです。同じ舟の中で、イエス様の隣(とな)りで、教えを
聞いていたにしても、それでイエス様を信用(しんよう)していたとは限(かぎ)りません。
「私達は苦労(くろう)してきたばかりですが、あなたの言葉なので網を降ろしましょう」。
「言葉」と訳(やく)されていますが、「福音(ふくいん)、教え、命令(めいれい)、預言(よげん)、出来事(できごと)」とも訳せます。
イエス様の言葉はただの言葉ではなくて、「福音であり、預言であり、出来事として
必ず実現する言葉」です。だからこれは、シモンの言葉と言うより、シモンの口を
使って、神様が言わせてくださった言葉と言って良いでしょう。  
 言われた通り、シモンは沖にこぎ出して、網を降ろしてみました。すると大量(たいりょう)の
魚で網が破(やぶ)れそうです。あわてて、岸にいる仲間(なかま)に声(こえ)をかけて舟を出してもらい、
網を引き上げました。しかし2つの舟は大量の魚の重(おも)みで、今にも沈(しず)みそうになり
ました。これを見たシモン・ペトロは、イエス様の足元(あしもと)にひれ伏(ふ)して言いました。
 「主よ、私から離(はな)れてください。私は罪深(つみぶか)い者なのです」。
 相手(あいて)が一点のシミもない純白(じゅんぱく)の衣(ころも)を着(き)ていて、自分がドロだらけの姿(すがた)だったら、
私達も同じように言うでしょう。自分のドロが飛(と)び散(ち)り、相手の衣を汚(よご)してしまう
かもしれません。でもイエス様は純白の衣を着ていたわけではなく、シモンと同じ
普段(ふだん)着(ぎ)です。イエス様の何を見て、シモンはこう言ったのでしょう。
 本日の説教(せっきょう)はカテキズム問24から「イエス様が私達の主であるとは、どういう
ことですか」。答え「イエス様は私達が唯一(ゆいいつ)信頼(しんらい)する主人であり、私達はその僕(しもべ)だ
と言うことです」。この問いと答えを心に思い巡(めぐ)らしながら、主イエス・キリストの
誕生(たんじょう)を待(ま)ち望(のぞ)む御言(みことば)を新しく聴いていきます。
 最初(さいしょ)は信用(しんよう)していなかったけど、イエス様の言葉に従(したが)うと、舟が沈みかけるほど
大量の魚が採れた。この方の言葉は、漁師としての自分の知恵(ちえ)や経験(けいけん)、湖の常識(じょうしき)を
はるかに超(こ)えていた。この方の言った言葉は、現実(げんじつ)の出来事(できごと)となって、現(あら)われた。
シモンは気がついたのです。神様の言葉は真実(しんじつ)であり、現実(げんじつ)となって現われます。
そしてイエス様が言われた言葉通りのことが、そのまま自分の目の前で起(お)きました
この方は「神様から遣(つか)わされた聖(せい)なるお方」であることは間違(まちが)いない。
 イエス様は純白の衣どころか、「神様の聖さ」を身(み)にまとっておられる方だ。
一点の汚(けが)れもない神様の聖さを、イエス様の中に見たシモンは、イエス様の聖さに
触(ふ)れたら、たちまち罰(ばっ)せられ滅ぼされると思ったのでしょう。旧約聖書に「災いだ。
私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも私の目は、
王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤヤ6:5) と言うように神様の聖さを見ることの
恐れが多く記されています。ですからシモンも言ったのです。「主よ、私から離(はな)れて
ください。私は罪深(つみぶか)い者なのです」。とは言え小さな舟の中に、逃(に)げ場はありません。
シモンはただ恐ろしくて、イエス様の足元にひれ伏すことしかできませんでした。
 大量の魚と舟を岸につけてから、この驚くべき奇跡(きせき)を共(とも)に経験したシモンの仲間(なかま)、
ゼベタイの子ヤコブとヨハネも同じように、イエス様の足元にひれ伏しています。
彼らもシモンと同じように、イエス様を「主」と告白したのでしょう。イエス様は
シモンに、「恐れることはない。今から後、あなたは、人間をとる漁師になる」
と言われました。この時(とき)以来(いらい)、漁師だった彼らはこれまでの生き方をすべて捨(す)てて、
イエス様に従(したが)って生きる弟子(でし)達とされました。彼らは、イエス様を主と信じる
最初の弟子たちです。
 今日は第1週なので、ニカイア信条(しんじょう)によって私達はイエス様を「唯一の主」と
告白(こくはく)しました。使徒(しと)信条(しんじょう)では、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白して
います。「主」とは、「主人(しゅじん)」であり「あるじ」のことです。聖書には「主」と言う
言葉が、多く出てきますが、神様の名前「ヤーウェ」を口にすることを畏(おそ)れて、「主・
アドナイ」と言い換(か)えていたところから来ています。
 人が従うべき本物の主人、唯一の主人は、「主なる神様」お1人だけです。
でもこの世で私達は、色々な主人に従ってしまいます。自分が稼(かせ)いだ「お金、富(とみ)」
「地位(ちい)、肩書き(かたがき)、名誉(めいよ)」「知能(ちのう)、体力(たいりょく)、技能(ぎのう)」「美(うつく)しさ、健康(けんこう)」等。どれもこれも
時と共に、空(むな)しく消(き)えて行く。私達にとって最大(さいだい)の難関(なんかん)である「死」を乗(の)り越(こ)える
力もない。多くの主人にふり回(まわ)されて、多くの人が人生の道を見失(みうしな)っています。
だから今こそ真の主人に真(ま)正面(しょうめん)から向き合い、従って生きられるよう、
すべての人が「真の主、本物の主を自分自身の中に迎(むか)え入れる準備(じゅんび)」をする
必要(ひつよう)があります。
 ありがたいことに、真の主イエス様がシモンの前にいらしたように、この礼拝の
場にもいてくださいます。シモンが「主よ、私から離(はな)れてください。私は罪深(つみぶか)い者
なのです」と言ったように、イエス様は主なる神様であり、罪のない聖なるお
方です。にもかかわらず、罪深い私達と、どこまでも共に生きてくださるの
です。
シモンは「私から離れてください」と言ったけど、イエス様は私達から離れない。
外面(そとづら)は普通(ふつう)で、まともに見えても、内側(うちがわ)はエゴまみれ、ウソまみれ、罪まみれで、
真っ黒な私達だと知っているのに、それでもイエス様は私達から決して離れない。
離れるどころか、そんな私達を、イエス様は私達以上に愛して、決して見捨(みす)てない。
自分でさえ愛せない私を、イエス様は私以上に愛しぬいて、見捨てることをしない。
自分の手に負(お)えない、とりかえしのつかない罪深さ、みじめな失敗(しっぱい)や恥(はじ)、みにくい
傲慢(ごうまん)や虚栄(きょえい)を、全身(ぜんしん)に貼(は)りつけている私達なのに、それでもイエス様は離れない。
イエス様は私達の全身に貼りついている汚れを、1つ1つご自分の血(ち)で洗(あら)っては、
聖(きよ)めておられる。私達をご自分に似(に)た聖なる神の子、ご自分の聖なる弟や妹に
するためです。この方こそが、我らの主です。イエス様こそ我らの唯一(ゆいいつ)の主
であり、我らが生涯、聴き従って生きるべき本物(ほんもの)の主です。
 私達がイエス様を知る以前から、教会に来る前、聖書を読む前から、イエス様は
ご自分の血で、私達の汚れを1つ1つ洗い聖めてくださっていた。でも私達はその
ことに無頓着(むとんちゃく)でした。イエス様にお礼1つ言わずに過ごして来た。否(いな)、ほとんどの
人がイエス様にキレイに洗い聖めてもらっても知らん顔して、また罪の泥沼(どろぬま)の中に
入(はい)って行きます。私達もその1人でした。今でもそうです。それなのにイエス様は
私達から離れない。私達が神の子として完成(かんせい)するまで、仕(つか)えてくださる。ご自分の
すべてを賭(か)け、すべてを注(そそ)いで、私達を愛して、イエス様は仕えてくださるのです。 
 「この方こそ我らの主だ」と目覚(めざ)めた者は「私に従いなさい」と言うイエス様の
言葉に聴き従い、イエス様の僕(しもべ)とされて行きます。シモンに命じたように私達にも
イエス様は、私達の背(せ)が届(とど)かない深い沖にむかって、何度も舟出させるでしょう。 
そこで私達自身の新たな罪の深みを見るためです。またどんな罪の深みにも
イエス様の罪の聖め、罪の赦(ゆる)しがちゃんと届いていることを新たに発見して
我らの主イエス・キリストを信じます」と心からの歓喜(かんき)と讃美(さんび)を叫(さけ)ぶため
です。
 汚(よご)れた部屋(へや)では、多少(たしょう)ゴミが散(ち)らかっていても、気にならないし、気がつかない。
でも部屋がキレイになるほど、小さなゴミも気になります。私達が聖い神の子と
されるとは、聖くされれば、されていくほど、「自分の更なる罪の深み」と
「イエス様の更なる罪の赦しの深み」に注意深く、繊細(せんさい)にされていくということです。それは、時に恐ろしいと思えるかも知れない。でも主なるイエス様は、
私達を1人にしません。どんな険(けわ)しい信仰の道でも、我らの主イエス様が先立って
行くと同時に、しんがりを守り、更に私達の傍らにいて、共に歩んでくださいます。
なぜなら我らの主イエス様は、「インマヌエル・神我らと共にいます」という
お名前のお方だからです。この「インマヌエル」の主が、私達の信仰の1日1日
の中に新しく誕生(たんじょう)して支えてくださるから、私達もまた日々新しく「主なるイエス
様に従う者」とされていくのです。

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