日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「王がおいでになる
聖書   : ヨハネ12:12-19 
年月日  : 2018-1-7
特記事項 : 新年合同礼拝
今日は教会(きょうかい)の暦(こよみ)では「公(こう)現日(げんび)」(Epiphany)と言って、東方(とうほう)から学者たちが来て、
飼い葉桶に眠る幼子(おさなご)を拝(おが)むことで、メシアの出現(しゅつげん)が異邦人(いほうじん)にも示されたことを祝う
日です。先週の聖書箇所がそうでした(マタイ2:1-12)。説教後の讃美歌が、無力な
幼子を通して神様の栄光(えいこう)がこの世に輝(かがや)き出たことを喜(よろこ)び祝(いわ)う「公現日」の讃美歌
になっています。ですからまだ今はクリスマス期(き)間中(かんちゅう)なので、教会にはクリスマス
の飾(かざ)りつけがされています。
 そして今朝の聖書箇所は、また別(べつ)の意味(いみ)で神様の栄光が示されようとしています。
エルサレムには過(すぎ)越(こし)祭(さい)のために、多くの巡礼者(じゅんれいしゃ)たちがいました。そこへイエス様が
来られると聞いたので人々は、なしめやしの木の枝(シュロの枝)を持ち、イエス様を
出向かえて、口々(くちぐち)に叫(さけ)んで言いました。
 「ホサナ、主の名によってこられる方に。祝福があるように。イスラエルの王に」。
 讃美歌にもありましたが「ホサナ」とはどういう意味なのか。「バンザイ」とか、
景気(けいき)づけの言葉と思いがちですが、「どうか主よ、今、私達を救ってください。
今すぐ救ってください」と、必死(ひっし)に救いを求める言葉なのです。
そして多くの人々が願っていた救いとは、ローマ帝国(ていこく)に支配(しはい)されている屈辱(くつじょく)から
救い出されることであり、そのことを実現してくれる偉大(いだい)な王、メシア、救い主を
人々は待(ま)ち望(のぞ)んでいました。イエス様は多くの奇跡(きせき)を行(おこな)ってきました。11章では
死んで墓(はか)にいたラザロを生き返らせました。このことは、たちまち多くの人が知る
ことになったでしょう。17節も、そのことを記しています。「死人を生き返らせる
ほどの力を持つイエス様は、聖書が預言したメシア、新しい王に違いない。偉大な
力をふるってローマ軍を撃退(げきたい)し、再(ふたた)びダビデの王国(おうこく)を取(と)り戻(もど)してくれるはずだ」。
ですからホサナと叫んだ人々は、イエス様のことを、ダビデのような勇敢(ゆうかん)な王、
軍事的(ぐんじてき)・政治的(せいじてき)な王として大いに期待(きたい)して、熱狂的(ねっきょうてき)に出迎(でむか)えたのです。
 イエス様と共にエルサレムに入る弟子達も同じ思いだったでしょう。「イエス様に
ついてきたのは間違(まちが)いではなかった。イエス様こそ、イスラエルの新しい王となる
べき方だ。私達の未来(みらい)も明(あか)るい」。胸(むね)を躍(おど)らせて、弟子達は誇らしげに人々の歓喜(かんき)の
声(こえ)を聞(き)いていたでしょう。イエス様を殺(ころ)そうと狙(ねら)っていたユダヤ教(きょう)指導者(しどうしゃ)たちも、
エルサレムの町が、優勝(ゆうしょう)パレードのように盛(も)り上がっているのを見て言っています。
「見よ、何をしてもムダだ。世をあげてあの男について行ったではないか」(19節)。
 人々は「ホサナ」と叫び「今すぐ救ってください」とイエス様に求めていますが、
目の前にある不自由(ふじゆう)さ、屈辱(くつじょく)、不名誉(ふめいよ)を取り除(のぞ)くことだけが、救いなのでしょうか。
私達にも言えることです。自分の目の前にある痛(いた)みや貧(まず)しさがなくなることだけが、
救いなのでしょうか。果たして人の目に見えること、人の思い描(えが)くことだけが、
本当に救いなのでしょうか。
「目の前の問題がとりあえず消えたら良い」なんて神様は思わない。上辺だけを
繕って済ませても、それは救いとは言えない。神様は、問題の根源に目を留めて、
私達を根こそぎ造り変え、救ってくださる。これが神様の救いのやり方です。
 「天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、 私の思いは、
あなたたちの思いを高く超(こ)えている」(イザヤ55:9)。即ち「人が願う救いと神様が
与(あた)えようとする救いは、全(まった)く異(こと)なる。人が思いもつかない救いを、神様は
与えてくださる」と言うイザヤ書の言葉に、私達は謙虚(けんきょ)に耳(みみ)を傾(かたむ)けるべき
でしょう。
人々が偉大な王と期待しているイエス様はロバの子を見つけると、ロバに乗(の)って
エルサレムに入って行きました。王なら立派(りっぱ)な馬(うま)に乗り、堂々(どうどう)と胸(むね)を張(は)って行けば
良いのに、なぜ小さなロバに乗ってテクテク行ったのか。それを見ていた弟子達も
不思議(ふしぎ)に思いました。でもイエス様が死から復活(ふっかつ)して神様の栄光を受け、弟子達に
聖霊(せいれい)が与えられた時、弟子達はイエス様のなさったことを、ようやく悟(さと)りました。
イエス様がなさったことは、ちゃんと聖書(旧約聖書)に預言されていたのです。
15節「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がお出でになる。ロバの子に乗って」。
これはゼカリヤ9:9からのの引用(いんよう)です。この続きを、もう少しご紹介します。
「彼は神に従(したが)い、勝利(しょうり)を与(あた)えられた者。高ぶることなく、ロバに乗って来る。
雌(め)ロバの子であるロバに乗って。私はエフライムから戦車(せんしゃ)を、エルサレムから
軍馬(ぐんば)を絶(た)つ。戦(たたか)いの弓(ゆみ)は絶(た)たれ、諸国(しょこく)の民(たみ)に平和(へいわ)が告(つ)げられる。彼の支配(しはい)は
海(うみ)から海へ。大河(たいが)から地(ち)の果(は)てにまで及(およ)ぶ」(ゼカリヤ9:9-10)
ゼカリヤ書が預言している通り、イエス様は次々(つぎつぎ)と奇跡(きせき)を起(お)こして、ローマ軍(ぐん)を
倒(たお)していく軍事的(ぐんじてき)な王(おう)ではありません。神様から、王として遣(つか)わされたイエス様に
与えられていた使命(しめい)とは「イスラエルだけでなく、この地上(ちじょう)からあらゆる闘い(たたか)
を無(な)くすこと。そして誰かに都合(つごう)の良い(よ)平和(へいわ)ではなく、神様の正義が全うさ
れる真の平和、神様の平和を、地(ち)の果(は)てにまでもたらすために働く」ことで
した。
神様から遣わされた王は、武力(ぶりょく)で相手(あいて)をねじ伏(ふ)せる王ではなくて、神様の勝利(しょうり)を
与(あた)えられているのに決して高ぶらず、神様に従順(じゅうじゅん)に従(したが)う王。勇(いさ)ましい戦車(せんしゃ)や軍馬(ぐんば)
に乗ってやって来る王ではなく、小さなロバの背(せ)に揺(ゆ)られながらやってくる柔和(にゅうわ)な
王。イエス様のことです。そしてイエス様がこれから向かうのは、黄金(おうごん)に輝(かがや)くこの
世の王座(おうざ)ではなくて、十字架でした。
神様の平和をもたらすイエス様が誕生して、約(やく)2000年(ねん)経(た)った今も、神様の平和は
完成(かんせい)していません。戦車(せんしゃ)や軍馬(ぐんば)がなくなるどころか、核兵器(かくへいき)による威嚇(いかく)が、各地(かくち)に
飛(と)び火しています。それぞれが自分の正しさや正義(せいぎ)を掲(かか)げて一歩(いっぽ)も譲(ゆず)らず、不毛(ふもう)な
戦(たたか)いが、今もなお続(つづ)いています。
私達も例外(れいがい)ではありません。自分の正しさを譲らず、憎(にく)しみと敵意(てきい)を、陰(かげ)で表(おもて)で
相手(あいて)にぶつけています。憎しみと敵意は、新たな憎しみと敵意を生み出し、それが
「憎しみと敵意の連鎖(れんさ)」となり、手のつけられない泥沼(どろぬま)になります。この泥沼は、
神様の平和とは真(ま)逆(ぎゃく)のものです。大小(だいしょう)の差(さ)はありますが、「憎しみ(にく)と敵意(てきい)の連鎖(れんさ)」
という泥沼の中で、私達は生活しています。そのために苛立(いらだ)ち、神経(しんけい)をすり減(へ)らし、
ストレスを抱(かか)え、心や体を痛(いた)めて苦(くる)しむ心(こころ)貧(まず)しい私達です。だから「ホサナ、主よ、
今すぐ私達を救ってください」と言う叫びは、私達の叫びでもあります。
 イエス様が誕生(たんじょう)したにもかかわらず、2000年(ねん)経(た)っても神様の平和が実現(じつげん)しない。
イエス様は無力(むりょく)なのか。そうではない。イエス様は神様の平和を大昔からすべての
人に差(さ)し出してきました。しかし自分だけの正義(せいぎ)を信じる人は、自分(じぶん)中心(ちゅうしん)の
平和(へいわ)、自分のための平和しか求めない。だから、自分(じぶん)の平和(へいわ)とは相容(あいい)れない、
神様の平和には背(せ)を向(む)けて、捨(す)て去(さ)ってしまうのです。
だから今こそ、イエス様がロバでエルサレムに入ったことの重大(じゅうだい)さを、しっかり
私達は受(う)け止(と)めなくてはならない。
イエス様が入ったのは、まさに「神様(かみさま)の平和(へいわ)を捨(す)てた、憎(にく)しみと敵意(てきい)の泥沼(どろぬま)
の中(なか)」です。その泥沼(どろぬま)の只中(ただなか)に留まって、イエス様はすべての人(全人類)が
ふりおろす憎しみと敵意の鋭(するど)い刃(やいば)を、ご自分の体ですべて受け止めました。
ご自分の体で憎しみと敵意(てきい)の連鎖(れんさ)を断(た)ち切(き)るため。これ以上、誰にも憎しみ
と敵意を広げさせないためです。それが十字架です。この十字架に向かうため
に、イエス様はロバに乗り、王として、エルサレムに入られたのです。
聖書が預言していた通り、「神様の平和をもたらす王」です。しかも人間(にんげん)が歴史(れきし)の
中で、粉々(こなごな)に断(た)ち切(き)ってきた「神様と人との平和」「人と人との平和」をつなぎ直(なお)す
ため、新(あたら)しい絆(きずな)となってくださったのが、「十字架につけられた王イエス様」です。
滅びて当然、救いようのない罪人にまで、神様の平和をもたらすために、十字架で
自分を献(ささ)げる。十字架で、愛する痛み、苦しみを最後まで担う。これがイエス様の
受けた栄光です。世間(せけん)や弟子達が思い描(おもいえが)いていた、きらびやかな栄光とは全(まった)く違(ちが)い
ます。私達罪人を愛しぬくため、私達に神様の平和をもたらすため、「みじめで、
血まみれの十字架の栄光」を受けるため、イエス様は生まれて下さいました。
 「彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなくロバに乗って来る」(ゼカ9:9)。
神様の平和を1人1人に手渡(てわた)すために、王であるイエス様が今、私達の目の前に、
教会においでになっています。王であるイエス様が差し出す「神様の平和」は、
武力(ぶりょく)や人の正義(せいぎ)ではなく、神様への従順(じゅうじゅん)によって成(な)し遂(と)げられます。
これは、自分(じぶん)の罪深(つみぶか)さを嘆(なげ)き「ホサナ、主よ助けてください」と叫ぶ人には救い
の希望(きぼう)ですが、自分の正しさに満足(まんぞく)し、神様への従順を拒む人には、厳(きび)しい警告(けいこく)と
なります。
私達、また教会は、どのように、王であるイエス様をお迎(むか)えするのでしょうか。
私達や教会を、神様はご覧(らん)になっていますが、世間も見ています。信仰者と言いな
がら、私達が自分の正しさにしがみつき、王であるイエス様を門前払(もんぜんばら)いにするのか。
それとも自分の正しさを潔(いさぎよ)く捨(す)てて、神様に最(もっと)も従順(じゅうじゅん)な王イエス様にすべてを
明(あ)け渡(わた)して従うのか。今こそ平和の王イエス様を、全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)でお迎えしましょう。
そして神様の平和を、この世に向かって泉(いずみ)のように溢(あふ)れさせて行きましょう。

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