日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「心を新たにして」 
聖書   : ローマ12:1-8
年月日  : 2020-10-4
 
前回まで(9-11章)、キリストの福音に背(せ)を向(む)けるユダヤ人だけど、彼らの救いを
諦(あきら)めない神様の深(ふか)い憐(あわ)れみが語(かた)られていました。12章からは具体的(ぐたいてき)な信仰生活に
ついて、神様の憐れみを通(とお)して語られます。「兄弟たち」とパウロが言っているのは
ローマの教会の人々ですが、それだけでなく、先程(さきほど)、洗礼(せんれい)を受(う)けた2人の方(かた)を含(ふく)め、
キリストの福音を信じて救われた、すべての人に向かって語りかけています。
 「自分の体を神に喜(よろこ)ばれる、聖なる生きたいけにえとして献(ささ)げなさい。これこそ、
あなたがたのなすべき礼拝です」。
神様が望(のぞ)んでおられることを、直球(ちょっきゅう)ど真(ま)ん中で私達に向かって投(な)げ込(こ)んでくる
この言葉に、私達は逃(に)げ場がありません。献げるよう、求められているのは、献金
だけではありません。しかもここで言われているは「聖なる、生きた、いけにえ」
としての「自分の体」と言う献げ物です。
すなわち神様の愛によって、キリストの十字架の血の赦(ゆる)しによって、聖霊
の導(みちび)きによって、「聖なる者とされ、新しく生かされている自分」「尊(とうと)い者
とされている自分」を腐(くさ)らせたり、傷つけたりするのではなく、復活の命を
宿したまま、生きたまま、喜(よろこ)びと感謝(かんしゃ)をもって、神様に献げるのです。
 私達が献げ物をするのは、救われるためではない。もう既(すで)に神様の愛によって
救われているから、救われた喜びと感謝と共に救われて「神様のもの」と新しく
された自分自身を、丸(まる)ごと、神様に用(もち)いていただきたいと願って、献げるの
です。
 「もう年だから」「病気もちで何の役(やく)に立てないから」「仕事が忙(いそが)しいから」と、
私達は神様に自分を献げることをためらい、あるいは煩(わずら)わしく思います。確(たし)かに、
礼拝や教会で、自分を献げることについて、健康(けんこう)や時間(じかん)の制約(せいやく)があり、困難(こんなん)な方も
おられます。でもここでパウロが言っている礼拝とは、はたして教会で献げる礼拝
だけを指(さ)しているのでしょうか。
 むしろパウロは信仰を与えられ、救われた私達の全生涯(ぜんしょうがい)、すべての時間が、
神様を拝(おが)む礼拝、神様の御前(みまえ)で生きる礼拝だと言っているのではないか。家庭(かてい)に
いる時、職場(しょくば)にいる時、どこで何をしようと、神様から与えられているすべて
の時間とすべての命の日々が、自分を「聖なる、生きた、いけにえ」として
神様に献げるための礼拝の場だと言っているのではないか。
そうなると、私達は自分の日々の生活、自分の人生を見つめる目が違(ちが)ってきます。
破(やぶ)れ提灯(ちょうちん)のような私達だと、神様から知られているにもかかわらず、神様から
赦され、愛され、神様のものとされている恵み深さを噛(か)みしめながら、(苦難(くなん)
や嘆(なげ)きの時でさえも)私達の人生のすべての時が、神様を仰(あお)いで、神様との
交わりの中で生きる礼拝の場」となるのです。
 では日曜礼拝以外で、自分の日常(にちじょう)生活の中心にあるものとは何か。神様なのか。
神様以外(いがい)のものなのか。自分の利益(りえき)や成功(せいこう)、自己(じこ)満足(まんぞく)が生活の中心に座(すわ)り込んでは
いないか。そんな偶像(ぐうぞう)のために、身(み)を粉(こ)にして、自分を献げているのではないか。
この問いに、胸(むね)をはれる人は恐らく誰(だれ)もいないでしょう。
その一方で「年中(ねんじゅう)、神様に自分を献げる必要(ひつよう)があるのか分からない」という方も
おられるはずです。なぜ自分を「神に喜ばれる聖なる生きたいけにえ」として献げ
なくてはならないのか。これは先程も言いましたが「救われるためではない」。
そうではなくて、私達を罪と死から救い出すために、真(ま)っ先(さき)に、神様の御子(みこ)
イエス・キリストのすべてが、十字架の祭壇の上で献げられているのです。
キリストという最上(さいじょう)の献げ物が、すでに献げられているから、永遠(えいえん)の滅(ほろ)び
から救われて、「神様のもの」とされている私達が今、ここにいます。最初に
キリストという神様からの献げ物があったから、このキリストを信じる信仰
によって救われ、神の国を自分の本国(ほんごく)としている私達が、今、ここにいます。
 私達のために献げられた、キリストという限(かぎ)りなく尊(とうと)い献げ物。どれほど尊い
犠牲(ぎせい)と引(ひ)き換(か)えに、私達の救いが与えられているか。勿体(もったい)ないほどの神様の救いの
真実(しんじつ)に目覚(めざ)めて、十字架を見上げる時、もはや私達は、この世に流(なが)されたままで、
生きるわけには行かなくなる。むしろこの世の只中で、神様と出会い、神様を拝み
礼拝することを求めます。そして神様を拝(おが)む礼拝の中で、聖霊の力によって自分
のすべてを新(あら)たにしていただいて、この世に倣(なら)うのではなくて、キリストに
倣う者、キリストのように御心(みこころ)に従(したが)って、何も惜(お)しまず自分を献げる者と
して、日ごとに造(つく)り変えられることを、私達は心を新たにして、望(のぞ)んでいき
ます。
 そこで欠(か)かせないのが御言に聴(き)く礼拝です。すべての時が礼拝だと言いましたが、
教会の礼拝で御言に聴くことで、キリストの十字架の献げ物が、私達の全身に強く
深く鮮やかに刻印(こくいん)されていき、私達の救いの喜びと感謝がますます確(たし)かにされます。
そうして、心を新たにしていただきながら、「神様への献げ物となる人生」が、
私達の全身全霊に広がって行きます。
 また神様に救われた信仰者なら、神様への献げ物が、粗末(そまつ)なもので良いとは思わ
ないはずです。例(たと)えば大切(だいせつ)なお客(きゃく)さんに、自分が食(く)いちらかした残(のこ)り物を出したり
しません。まして命や体など、かけがえのない大切なものを私達に与えてくださる
神様へ献げ物をするならば、「何が神の御心であるか、何が善(よ)いことで、神に喜ばれ、
また完全(かんぜん)なことか、わきまえるように」されていくはずです。
 3節以下で、パウロは信仰者同士(どうし)のあり方に触(ふ)れています。まず、「自分を過大(かだい)に
評(ひょう)価(か)するのではなくて、神様が各自(かくじ)に分け与えておられる信仰の度合(どあ)いに応(おう)じて、
慎(つつし)み深(ぶか)く評価すべき」と言っています。教会には、年齢(ねんれい)も性格(せいかく)も経験(けいけん)も異(こと)なる人が
います。世間(せけん)では当(あ)たり前でも、個人的(こじんてき)なものさしを教会に持ち込み、自分や相手(あいて)を
判断(はんだん)したり、それぞれの違(ちが)いに優劣(ゆうれつ)をつけるのは危険(きけん)です。なぜなら「教会という
キリストの体の一致」を傷(きず)つけ、破壊(はかい)してしまうからです。
「効率(こうりつ)や利益(りえき)を求(もと)める世間のやり方」を教会の中に持ち込み、押(お)し通(とお)すことは、
神様が中心におられる聖域(せいいき)としての教会では、ふさわしくないし、通用(つうよう)しません。
否(いな)、通用させてはならない。体には色々な部分(ぶぶん)があり、異なる働(はたら)きをするように、
教会にいる私達も色々な違(ちが)いはありますが、キリストに結(むす)ばれながら互いに1つの
体を形作るための大切な部分です。違いはあっても、世間的な優劣はありません。
そのことを6節では、「私達は、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物(たまもの)を
もっています」と言い換(か)えています。
 神様から信仰を与えられて、救われて、教会に呼(よ)び集(あつ)められて、礼拝をしている
私達には神様の恵みにより、預言(よげん)や奉仕(ほうし)、勧(すす)め、施(ほどこ)し、指導(しどう)、慈善(じぜん)など8節までに
書かれているような、異なる賜物があります。自分にどのような賜物が与えられて
いようと良いのです。神様からの一方的(いっぽうてき)な恵みとして与えられた賜物だからです。
勿論(もちろん)、「私にはムリ」と言いたくなる賜物もあります。でも神様が与える賜物には、
その賜物に仕(つか)えて、賜物と共に生きぬくことができる力も、神様はちゃんと与えて
おられます。
だから神様の憐れみに固(かた)く信頼(しんらい)し、キリストの体をこの世に現(あら)わしていく
ために、賜物を与えられている自分を、恐れず、雄々(おお)しく生きて行きたい。
いつも聖霊の力心を新たにしていただき、賜物を受けた自分を生きて行きたい。
でもそれは、1人で孤立(こりつ)して頑張(がんば)ることとは、違(ちが)うように思います。頭だけとか、
体の1部分だけが孤立して頑張っても、体の健康(けんこう)は保(たも)てないように、すべての体の
部分が互(たが)いに組(く)み合わされ、補(おぎな)い合う時、1つの体が形作られます。
「キリストの体・教会」も同じです。1人1人が互いに組み合わされ補い合う
時、「キリストの体・教会」は健全(けんぜん)な姿(すがた)で礼拝を献げ、神様の御心を果(は)たせる
ようになります。
ここにいる方々は神様の賜物を与えられた「キリストの体の各部分」です。
互いに組み合わされながら1つの体とされて、キリストの救いを多くの人に
届けるために「自分の人生を献げて生きるように」と、神様から選ばれて、
心を新たにしていただいている、幸いな1人1人なのです。

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