日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「あなたがたが私の弟子
聖書   : ヨハネ13:21-35  
年月日  : 2018-7-1
イエス様と弟子(でし)達(たち)は共(とも)に食事(しょくじ)をしていた時に、イエス様が弟子の足(あし)を洗(あら)った後で
[私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互(たが)いに足を洗い合わなければ
ならない」と彼らに言われました。本日の箇所はその後(あと)の出来事(できごと)です。イエス様は
霊的(れいてき)な高(たか)まりと共に、弟子達にハッキリ告(つ)げています。
 「あなたがたのうちの1人が私を裏切(うらぎ)ろうとしている」。
ここにいるのは、イエス様とずっと寝食(しんしょく)を共(とも)にしてきた仲間(なかま)です。イエス様が
なぜそんなことを言うのか、また誰(だれ)のことを言っているのか、弟子達は理解できず、
互いに顔(かお)を見合(みあ)わせるばかりです。でもペトロはこらえきれずに、イエス様の隣(となり)に
いた弟子に、「誰のことを言っているのか」イエス様に尋(たず)ねるよう合図(あいず)しました。
当時(とうじ)の食事(しょくじ)のスタイルは、ダビンチが描(か)いた「最後(さいご)の晩餐(ばんさん)」の絵(え)とは違(ちが)い、体(からだ)を
横(よこ)たえて食事をしていました。私達には行儀(ぎょうぎ)悪(わる)く見えますが、少し体をずらすと、
隣の人によりかかる形になります。イエス様の隣にいた弟子が「誰のことですか」
と聞いたのでしょう。イエス様はご自分によりかかっている弟子に[私がパン切れを
浸(ひた)して与(あた)えるのが、その人だ」と言ってから、パン切(き)れをユダに渡(わた)して「しようと
していることを、今すぐしなさい」と言いました。そしてパンを受(う)け取(と)ったユダの
中に、サタンが入(はい)りました。
でも弟子達は、誰もユダを裏切(うらぎ)り者(もの)とは思っていません。むしろお金を預(あず)かって
いたので、ユダがイエス様から用事(ようじ)を頼(たの)まれたとしか、思いませんでした。
ユダが部屋(へや)を出(で)たのは、夜でした。ヨハネ福音書で、夜(よる)はサタン(さたん)が働(はたら)く時です。
イエス様は世(よ)を照(て)らす命(いのち)の光(ひかり)ですが、ユダはイエス様が照らす光から離(はな)れ去(さ)って、
サタンが働く夜(よる)の闇(やみ)の中(なか)に飛(と)びこんで行きました。
 この後、ユダがイエス様を裏切りに行くとイエス様は知っていたのに、どうして
ユダを止(と)めないで「しようとしていることを、今すぐしなさい」とユダを行かせた
のか納得(なっとく)いきません。実際(じっさい)、イエス様の死はユダの裏切りによって一気(いっき)に進(すす)みます。
でもここにヨハネ福音書独特の「イエス様の十字架(じゅうじか)の死」の描(えが)き方(かた)が表れています。
「イエス様は弟子に裏切られ、だまされた結果(けっか)、十字架で死んだのではない」。
そうではなくて「すべての人の罪(つみ)を背負(せお)って十字架で死ぬと言う、神様の愛(あい)の
御心(みこころ)、神様の救いのご計画(けいかく)をイエス様は進(すす)んで選(えら)び、十字架の死に向(む)かって
みずから進んでいく」。これがヨハネ福音書の十字架の死の描き方なのです。
 そのことを印象(いんしょう)づける言葉が、18節で引用(いんよう)されています。これは、詩編(しへん)41:10
の引用です。その詩編をお読みします。
 「私の信頼(しんらい)していた仲間(なかま)、私のパンを食べる者が、いばって私を足げにします」。
 イエス様は弟子達を心から愛し、教(おし)えて、大切(たいせつ)に育(そだ)ててきました。他の福音書を
見ると、イエス様は偉大な業を行うご自分の力を弟子達に分け与えて、伝道(でんどう)の訓練(くんれん)を
させています(ルカ10:17-19)。ヨハネ福音書でも、イエス様は奴隷(どれい)のようになって、
弟子達の足(あし)を素手で洗(あら)いました。その中には、ユダもいました。心から愛してきた
弟子に裏切られる悲(かな)しさ、痛(いた)み、つらさを味(あじ)わうようになる。そのことを、充分承知(しょうち)
した上(うえ)で、イエス様は十字架の死を引(ひ)き受(う)けるのです。
だからイエス様が、神様から受け取る苦(にが)い杯(さかずき)は、神様から捨(す)てられる苦(にが)さだけ
ではありません。心から愛し、大切(たいせつ)に教え、育(そだ)ててきた弟子達。癒し、助けてきた
すべての人に理解(りかい)されず、捨(す)てられて、裏切られ、独(ひと)りきりで死んで行く「苦い杯」
なのです。でもこの苦い杯をイエス様はユダに裏切られて、だまされたから、
仕方(しかた)なく飲(の)まされるのではない。イエス様はご自分から進んで手を伸(の)ばして、
苦い杯を選(えら)んで受け取り、二重に苦い杯を飲みほすのです。
 ユダが出て行きました。いよいよイエス様の十字架の死が始まります。その場に
残(のこ)っている11人の弟子達に、イエス様は言っています。
 31節「今や人の子は、栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」。
イエス様の十字架の死は、人の目には、みじめな敗北にしか見えません。
でもイエス様の十字架の死は、神様の救いを成し遂げた時であり、神様から
栄光(えいこう)を受(う)ける時なのです。そしてイエス様が栄光を受ける時、同時(どうじ)に神様も
イエス様の十字架の死によって、栄光を受けます。考(かんが)えてみれば、これは当然(とうぜん)
のことです。ニカイア信条(しんじょう)で告白(こくはく)したように、父なる神様と子なる神様は、同質(どうしつ)
だからです。御子(みこ)が十字架ですべての人の罪(つみ)を背負(せお)うことを決意して、歩み
出す時、神様から栄光を受けるなら、父なる神様もまた御子によって栄光を
受けます。十字架が御子の勝利であると共に、神様の勝利となるのです。
 イエス様が残(のこ)った11人の弟子達と一緒(いっしょ)にいられる時間(じかん)は、そう長くありません。
イエス様はこれから十字架に続(つづ)く道を独りで歩(ある)いて行きます。その弟子達に言って
います。「私が行く所に、あなたたちは来ることができない」(33節)。
 イエス様は十字架で死にます。でも3日目に復活して、やがて天に帰(かえ)り、神様の
御子として、神様の右(みぎ)の座(ざ)につきます。弟子達が天に引き上げられるまで、彼らは
イエス様と天(てん)と地(ち)に分(わ)けられたまま、イエス様の弟子として世の中で生きて行く。
苦難(くなん)が次々(つぎつぎ)と彼らを襲(おそ)い、彼らの信仰を揺さぶります。イエス様が、そんな彼らの
ことを、どれほど心配しておられることか。でも弟子達は、イエス様の思いを理解できません。そんな弟子達のために、イエス様は言います。34-35節。
 「あなたがたに新しい掟(おきて)を与(あた)える。互(たが)いに愛し合いなさい。私があなたがたを
愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、
それによって、あなたがたが、私の弟子であることを、皆(みな)が知(し)るようになる」。
 しばらく地上(ちじょう)に残(のこ)る弟子達のために、イエス様が残した贈物(おくりもの)は「互いに愛し合う」
と言う掟でした。しかもただ愛し合うのではなくて、「イエス様が弟子達を愛した
ように」、互いに愛し合うのです。イエス様が弟子達の足(あし)を洗(あら)って模範(もはん)を示(しめ)して
くださったように、寝食(しんしょく)を共(とも)にした弟子に裏切られても、イエス様が十字架で、
罪(つみ)の赦(ゆる)しのためにとりなし、祈り、愛してくださった模範に倣い、弟子達も
互いに赦し合い、祈り、愛し合うのです。
イエス様が選(えら)んだ弟子達の中に裏切り者のユダがいました。ユダだけではない。
イエス様は、2000年の教会の歴史(れきし)の中で多くの信仰者を選んできましたが、すべて
の信仰者がイエス様の忠実(ちゅうじつ)な弟子になったわけではない。教会を離れ、イエス様の
弟子としての生涯(しょうがい)を全(まっと)うできなかった信仰者は少(すく)なくない。その理由(りゆう)の多くが、
他の信仰者の言葉(ことば)や行(おこな)いに躓く。でも教会は罪人の集(あつ)まりで、完璧(かんぺき)な人間の集まり
ではないから、ある意味、仕方ない。と言うより自分も、誰かを躓かせているかも
知れない。誰のことも躓かせていない人なんて、牧師(ぼくし)も含(ふく)め1人もいないのです。
だから「ユダの足(あし)さえも洗(あら)ったイエス様に倣(なら)い、すべての罪人の赦しのため
とりなして祈り、愛してくださるイエス様を模範(もはん)に、互いに愛し合う」掟(おきて)に
従(したが)うことが、この世で信仰者として、またイエス様の忠実(ちゅうじつ)な弟子(でし)として、
互いを生(い)かし、教会を生かしていくための、重要なポイントになります。
 とは言え「イエス様を模範(もはん)に互(たが)いに愛し合う」のは簡単(かんたん)なことではありません。 
信仰者も完璧(かんぺき)ではなく、皆、弟子(でし)失格(しっかく)です。皆が弟子失格だからイエス様は
信仰者をご自分のもとに集(あつ)めて、互いに愛し合えるよう、愛をこめて手入(てい)れ
してくださる。すべての信仰者が「互いに愛し合う」愛(あい)の掟(おきて)を生(い)きれるよう
どんな厄介(やっかい)者(もの)でも、イエス様は喜(よろこ)んで信仰の手入れをしてくださいます。
イエス様は休まず寝(ね)ずの番(ばん)をして、愛を注(そそ)ぎ、サタンの雑草(ざっそう)を引(ひ)きぬき、私達の
信仰(しんこう)を忍耐強く手入れしながら、信仰の生涯を支(ささ)え、守り、育(そだ)ててくださいます。
ヨハネ福音書は、ユダの自殺(じさつ)について何も言っていませんが、ユダはイエス様を
離(はな)れたまま、イエス様のもとに戻(もど)らなかった。裏切(うらぎ)り者(もの)の自分(じぶん)が、イエス様に受け
入れてもらえると、ユダは思わなかったから。完璧(かんぺき)に弟子(でし)失格(しっかく)の自分(じぶん)をイエス様が
赦して、信仰の手入れをしてくれるとは、ユダは想像もしていなかったから。でも
それはユダが、イエス様の愛と赦しを狭く、小さく、不寛容(ふかんよう)なものとして見くびり、
イエス様の愛と赦しが持っている、永遠で偉大な力を信(しん)じていなかったからです。
 私達の教会は30人(にん)余(あま)りの小さい教会ですが、30人余りでも残念(ざんねん)ながら「互いに
愛し合っている」とは言い切(き)れません。「あの人とは気が合わない。この人はダメ。
牧師がイヤだ」と言う。でも教会だけでなく、もっと人数の少ない家庭の中でさえ、
私達は自分の家族を愛せない。へりくだって、互いに愛し合うことができない。
私達は皆、弟子失格です。でも「互いに愛し合えない」弟子失格だからこそ、
イエス様から決して離れてならない。イエス様から離れたら、何の救いも
希望(きぼう)もない。イエス様から離れたら、私達はただの罪人で終わってしまう。
弟子失格のままでいいから、皆、イエス様のもとに戻(もど)り、イエス様の中に留(とど)まる。
イエス様から離れず、イエス様から、タップリ愛の手入れをしていただくのです。
イエス様の愛を信じ、互いに愛し合えるよう、生涯、イエス様の中で手入れ
されて信仰生活する私達を「あなたがたが私の弟子だ」とイエス様が認(みと)めて
くださる。だから私達は、イエス様から離れない。生涯(しょうがい)、イエス様の中に留まり、
「互いに愛し合う」イエス様の弟子であり続けるよう、イエス様に信仰の手入れを
してもらいながら生きて行きます。そうすることで、世間(せけん)が認(みと)めるよりも先(さき)にまず
イエス様が「あなたがたが私の弟子だ」と1人1人に宣言(せんげん)してくださいます。
 

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional