日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

聖霊を受けなさい

説教

タイトル :「聖霊を受けなさい」 
聖書   : ヨハネ20:19-23
年月日  : 2020-6-7     
今日の箇所(かしょ)の前のところでは、空の墓の前にいたマグダラのマリアが復活された
イエス様を見て、喜び、イエス様からあずかった伝言(でんごん)を、弟子達に知らせました。
しかしペトロも空(から)の墓(はか)を見たのに、弟子達はユダヤ人を恐(おそ)れて、家にカギをかけて
います。イエス様が殺(ころ)されたから、今度は自分達が殺されると思いこみ、恐怖(きょうふ)の中(なか)に
閉(と)じこもったままです。彼らはマリアが告(つ)げた「私は主を見ました」と言う言葉も、
復活されたイエス様からの伝言も、全(まった)く信じていなかったようです。
 そんな弟子達の真ん中に、突然、復活されたイエス様が現われて、言われました。
「あなたがたに平和があるように」。
これは、今でもユダヤ人が日頃(ひごろ)の挨拶(あいさつ)に使う言葉(ヘブライ語でシャローム)です。
でもこの言葉が示す平和とは、「争(あらそ)い事(ごと)がない、戦争(せんそう)がない」ということではなく、
「神様が共にいてくださる平和」のことです。ですからイエス様の言葉はただの
「平和の挨拶」ではなくて、「あなたがたは神様に救われて、神様と和解(わかい)した者(もの)。
神様によって、新しく生きる者とされている。何も恐れることはないよ」と
いう「恵みに満(み)ちた赦(ゆる)しの宣言(せんげん)」だったのです。
弟子達がマグダラのマリアが告げた「私は主を見ました」と言う言葉や弟子達へ
の伝言(でんごん)を聞いたはずなのに、恐怖の中に閉じこもっていたのは、ユダヤ人を恐れて
いただけでなく、イエス様を裏切(うらぎ)ったことへの恐怖もあったのではないでしょうか。
ペトロは3度も「イエスなんか知らない」と言ってしまった。一番弟子をきどって
いただけに、罪(つみ)と恥(はじ)の痛(いた)みで苦しんでいたでしょう。そこへイエス様が復活したと
言う知らせを、マリアが告げたのです。「ああ、自分は何と言うことをしてしまった
のだろう。イエス様にあわす顔がない」。後悔(こうかい)の思(おも)いは弟子達がそれぞれ抱(かか)えていた
はずです。だからこそ「あなたがたに平和があるように」と復活したイエス様は
弟子達にまず「赦しの宣言」をしてくださったのです。
そのあとイエス様は、ご自分の手と脇腹(わきはら)の傷(きず)を、弟子達に見せています。
「今ここにいる私は十字架につけられ、脇腹を刺(さ)しぬかれて死んだイエスで
あり、埋葬(まいそう)されたイエスだ。けれど3日目に死人の中から復活したイエスだ」。
このことを弟子達に明らかにするため、イエス様はご自分の傷を見せたのです。
イエス様の復活は、夢(ゆめ)や幻(まぼろし)ではなかった。イエス様は体をもって復活された。
そうです。復活は、体(からだ)抜(ぬ)きの復活ではない。イエス様は人が思いつく理屈(りくつ)とか
イメージをはるかに超(こ)えた姿(すがた)で復活されました。永遠(えいえん)に朽(く)ちることのないリアルな
体、全く新しい体と共に復活されたイエス様が、弟子達の前に立たれたのです。
そしてイエス様が弟子達に示(しめ)した新しい体こそ、信仰によってイエス様と1つに
結(むす)ばれている私達に約束(やくそく)されている永遠の命の体なのです。私達信仰者も、体ぬき
では復活しません。永遠である神様と共に生きるにふさわしい「永遠の命と体」を、
イエス様と同じ「復活の命と体」をいただくことが、私達に約束されています。
 弟子達は、なつかしいイエス様、でも新たなイエス様を見て、大いに喜(よろこ)びました。  
その弟子達にイエス様はもう1度「あなたがたに平和があるように。父が私を
お遣わしになったように私もあなたがたを遣わす」と言われました。なぜなら、
天におられたイエス様が、父なる神様から、苦難の多いこの世に遣わされたように、
今から弟子達は、イエス様によって、この世に遣(つか)わされて、伝道していくからです。
この世で伝道する時、弟子達はこの世の逆風(ぎゃくふう)をモロに浴(あ)びて心くじけるでしょう。
だからイエス様は「あなたがたに平和があるように」。つまり「神様が共にいて
くださる平和が、あなたがたと共にあるように」と、弟子達に言われたのです。
 ヨハネ福音書では、他の福音書とは違(ちが)って、イエス様が復活されるまで弟子達は
伝道していません。そしてヨハネ福音書では、復活されたイエス様が、弟子達に息(いき)を
吹(ふ)きかけて「聖霊を受(う)けなさい」と言ってから、彼らを伝道に送り出します。
 ここも、他の福音書と大きく違っています。ヨハネ福音書では、ペンテコステは
イエス様が天に上ってからではなく、イエス様の復活の出来事とペンテコステ
の出来事が、同時に起(お)きています。
また使徒(しと)言行録(げんこうろく)(2:1-4)では、天から弟子達に聖霊が降(くだ)りましたが、ヨハネ福音書
では、イエス様ご自身(じしん)が弟子達に直接(ちょくせつ)、息を吹きかけて聖霊を与えています。でも
これはイエス様が「私と父は1つである」(ヨハネ10:30)と言われたように、また
「聖霊は、父と子から出て」(ニカイア信条(しんじょう))と告白するように、「イエス様は、
父なる神様と共に、弟子達に息を吹きかけて聖霊を与えた」と受け取って良い
でしょう。
 そこで思い出されるのが、神様が人を造(つく)った時のことです。チリで造られた人は
そのままでは生きることができず、神様の命の息を吹きこまれることで、はじめて
人は「生きる者」になりました(創世記2:17)。
その天地(てんち)創造(そうぞう)のように、イエス様が聖霊の息を弟子達に吹きこむことで、彼らは
「イエス様に聴(き)き従(したが)い、イエス様を信じて、真理(しんり)を悟(さと)る信仰者」とされて、
新しく生き始(はじ)めます。言うならば、このことはイエス様が聖霊を吹きこむことで
始まる「新たな天地創造」です。そしてイエス様から聖霊の息を吹きこまれて、
新しく創造された弟子達は、伝道の使命(しめい)を果(は)たすため、イエス様からこの世に遣わ
されて行きます。この時、弟子達が遣わされて行く先々で果たすべき使命の重要な
点を、イエス様はこのように言っておられます。
 「誰(だれ)の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、
あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残(のこ)る」。
 つまり、聖霊を受けたイエス様の弟子達は、罪の赦しを行うために、この
世に遣わされていくのです。この点もマタイ福音書とは違(ちが)っており、罪の赦しの権能(けんのう)(天国の門を開けたり、閉めたりするカギの権能)は、ペトロ個人(こじん)(「私は
あなたに天の国のカギを授ける」マタイ16:19)ではなく、聖霊を受けた弟子
達の共同体・「教会」に託(たく)されています。
 ヨハネ福音書では、復活されたイエス様は、弟子達に現われて、聖霊の息を吹き
込み、彼らを「神様の真理を悟り、イエス様に聴き従って生きる新しい人」として
創造し、また聖霊を受けた弟子達を、罪の赦しの権能と使命(しめい)(役割(やくわり)、務(つと)め)をもった
共同体・「教会」として、この世に遣わしていきます。
 「罪を赦す。罪が赦される」。十字架の上で献(ささ)げられたイエス様の命とひきかえに、
すべての人の罪が赦されています。本の題名(だいめい)は忘(わす)れましたが、「罪の赦しは、妊娠(にんしん)に
似(に)ている。少しだけ妊娠するなんてありえないように、罪の赦しも、少しだけ赦す
なんてありえない。罪を赦すか赦さないか。どちらかだ」。そんな言葉を本で読んだ
記憶(きおく)があります。
 「罪が赦される」とは、「神様の平和がある」こと、「神様と共にいる」こと、否(いな)、
「神様の中に入る」こと、「神様の愛の中に丸ごとスッポリ入って生きる」ことです。
同様(どうよう)に罪を赦す人も赦す相手と一緒に神様の中に入って、お互いが神様の愛の中に
丸ごと包まれることで、新しくされて生き始めます。
赦しの本質(ほんしつ)は 「神様の愛」だからです。だから、赦す人も、赦された人も、
神様の愛の中で、お互いに1つにされ、新しく生かされます。これは人の業(わざ)
ではなくて、聖霊による偉大(いだい)な愛の御業(みわざ)です。そして聖霊による愛と赦しの
御業(みわざ)をこの世に現わすために、イエス様から、絶えず聖霊を吹きこまれて、
全地に遣わされているのが、弟子達の共同体・「教会」です。
 私達が遣わされている世界は、あらゆる差別(さべつ)や不正(ふせい)がはびこっており、そのため
敵意(てきい)や憎(にく)しみを抱(いだ)く人々が、それぞれ自分の正しさを掲(かか)げて、争(あらそ)いあっています。
この世にある教会や私達も、これらの争いと無関係(むかんけい)ではなく、赦すことの難(むずか)しさを
私達は痛感(つうかん)しています。というより、私達は赦すことも愛することもできません。
私達はエゴの束縛(そくばく)から離れて、自由に赦したり愛したりできない不自由な者です。
だからこそ私達を限(かぎ)りなく赦して、愛してくださる復活のイエス様が私達に
息をふきかけて「聖霊を受けなさい」と今、言ってくださいます。赦せない
から、愛せないからこそ私達には聖霊が必要です。イエス様に心から聖霊を
求めることが、すべての人に必要です。今こそエゴの束縛から解放されて、
お互いに自由に赦しあい、愛し合うために聖霊を求め、聖霊を受けることが
必要です。
聖霊こそがすべての妨(さまた)げに逆らい、神様の愛に向かって前進するように、
罪の赦しに向かって前進していくようにと、教会をまた私達をたくましく
育(はぐく)み、そして自由にしてくださるからです。
「主の霊のおられるところに、自由があります」(2コリント3:17)

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional