日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私は真のブドウの木

説教

タイトル :「私は真のブドウの木
聖書   : エレミヤ2:21、ヨハネ15:1-7
年月日  : 2018-12-2
特記事項 : アドヴェント
最初に読みましたエレミヤ書では、神様が甘いブドウを実らせようと植えたのに、
できたのは、すっぱくて食べられない「悪い野ブドウ」だったと書いてあります。
甘いブドウに例えているように、神様はご自分にかたどって人間を造られました。
神様の愛と正義を受け取って、それに応えて生きるようにと人間を造られました。
でも最初の人アダムは、神様の期待を簡単に裏切ってしまいます。そしてアダムの
子孫であるすべての人間が、すっぱくて食べられない「悪い野ブドウ」となって、
地上にはびこるようになりました。神様はこれを良しとせず、神様の言葉を伝える
預言者たちを、くりかえし地上に送るのですが、人間は無視し続けました。そこで
最後の手段として神様の愛と命と正義に満ちた真のブドウが実る木を、神様は
地上に植えました。それがイエス様の誕生です。
 イエス様はニカイア信条で告白した通り「神と同質」であり、神様の本質をその
まま持っておられる神様の御子です。その御子が、御心にかなう真のブドウの木と
して、神様の御手によって地上に植えられました。でも地上は、天にある楽園とは
大違いで、石コロだらけ、虫だらけの荒地です。また遠慮なく人々が踏み荒らし、
悪意のある種をまきちらします。地上には、真のブドウの木がすくすく育つような
良い条件はありません。しかしイエス様は言われます。
1節「私は、まことのブドウの木。私の父は農夫である」。
地上にイエス様と言う真のブドウの木を植えて以来、神様はいつも農夫として、
真のブドウの木の手入れをしておられます。バラも古い枝を切って手入れをします。
同じように神様は、実をつけないブドウの枝は取り除き、実を結ぶ枝は豊かに実を
つけるよう手入れをされます。バラの手入れをしていて気づいたのですが「やっと
芽を出した、ツボミをつけた、花が咲いた」と思ったら、翌日には丸坊主になって
いることがあります。そういう時には、虫が葉の裏に隠れていたり、枝と同じ色に
なって虫が枝に貼りついています。だから殺虫剤をまいて、バラの消毒をします。
では、真のブドウの木の消毒はどうするのか。イエス様の言葉を聴いて受け入れる
ことで、木の枝は清くされ、虫を寄せつけません。そして何より最も強力な消毒
となり、豊かな栄養になるのは、真のブドウの木と枝が1つに固く結ばれて
おり、つながっていることです。
4節「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ブドウの枝
が、木につながっていなければ自分では実を結ぶことが出来ないように、
あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことが出来ない」。
今日の箇所には「つながる」と言う言葉が、くり返し出てきます。「つながる」
と訳された言葉の元々の意味は、「留まる、宿る、住む、離れずいつまでもいる」
ということです。人間は自分の力では、良い実を結ぶことが出来ない悪いブドウの
木です。ただイエス様と言う真のブドウの木につながれ、接ぎ木されることにより、
つまりイエス様を信じて、イエス様にすべてをゆだね、洗礼を受けることに
よって、そしてイエス様が私達の内に住み込んでくださり、私達がイエス様
から離れず一緒にいることによってのみ、私達はやがて良い実を結ぶように
なります。
「私につながっていなさい」とイエス様は言いますが、私達が勝手に、イエス様
の所に行って、イエスにつながるのではない。農夫であり、ブドウ園の主人でもあ
る神様が手入れをして、私達を見つけて、イエス様につないでくださるのです。
勿論、私達が良い枝だからではありません。神様から見れば、私達は皆、規格外
の不良品です。ただ神様の憐れみによって、私達は、真のブドウの木・イエス
様のところに集められて、イエス様と1つになるように、真のブドウの木の
枝となるようにと、神様が手入れをしてくださるのです。
リンゴの木の枝にはリンゴが実ります。ミカンの木の枝にはミカンが実ります。
そして真のブドウの木・御子イエス様の枝には、イエス様に聴き従い、イエ
ス様に倣う「神様の子供たち」が実ります。
2000年前、神様は地上に、1本の真のブドウの木・イエス様を植えて、手入れを
してきました。すると、イエス様とつながった枝は世界中に広がって、その枝々に
多くの神様の子供たちを実らせてきました。そしてこれからも真のブドウの木は、
世界中の隅々にまで枝を広げて、神様の子供たちを実らせていくでしょう。いえ、
終わりの日が来るまで、御心にかなう神様の子供たちを豊かに実らせていく
ことが、真のブドウの木であるイエス様の使命です。
教会の暦では今日からアドヴェント「待降節」に入ります。待降節はイエス様の
誕生を待ち望む時であると共に、復活のイエス様が弟子達の前に現われたように、
終わりの日、復活のイエス様が再び私達の前に現われて、神様の救いを完成させて
くださることを確信して、イエス様の「再臨(さいりん)」を心から待ち望む時でもあります。
そこにおいても、重大なキーワードとなるのが、「つながる」ということです。
イエス様は5節で「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ」と言っています。ここの直訳は「私の中にいて、また
私が中にいる人は、豊かな実を結ぶ」。ここから分かるのは私達とイエス様は、
一方通行ではなくて、互いに交流し合います。私達がイエス様の中に住み込
むと同時に、イエス様もまた私達の中に住み込んでくださいます。互いに交
流し合う親しい関係の中で、私達は豊かな実を結びます。そして私達は終わり
の日、再び地上に来られる復活のイエス様とお会いする「幸いな神様の子供たち」
とされるでしょう。
勿論、イエス様との関係を始めてくださり、イエス様と交流させてくださるのは、
ただただ神様の恵みによるものです。私達人間にできることではありません。
その一方で、「イエス様につながっていない人は、枝のように外に投げ捨てられ、
枯れて、火に焼かれてしまう」と6節は言っています。イエス様との親しい交流を
望まない人、イエス様の中に住むこと、またイエス様が自分の中に住むことを拒む
人は、神様が喜ぶ実を結ばないので、終わりの日に、神様が実を結ばない枝として
取り除き、ぜんぶ処分なさいます(終わりの日の最後の審判の出来事)。
すると2節の言葉が気になります。「私につながっていながら、実を結ばない
枝はみな、父が取り除かれる」。「イエス様につながっていながら、実を結ばない
枝」とは、イエス様を信じ、洗礼を受けて信仰者になったのに、イエス様に聴き従
わず、神様の子供とはならない人のことです。終わりの日、神様は彼らを取り除き
ます。
 このように言うには理由がありました。ヨハネ福音書が書かれたのは、教会への
迫害が激しい時で、迫害を恐れて、多くの人が信仰を捨て、教会から離れるという
悲しい状況がありました。今、教会への露骨な迫害はありませんが、洗礼を受けて
喜んで信仰者になったのに、いつの間にか礼拝から遠ざかり、教会から遠ざかり、
イエス様を信じる信仰からも、完全に離れてしまう悲しい現実があります。
 しかしイエス様だけが、この地上で、神様の御心にかなう良い実を結ぶ真
のブドウの木なのです。イエス様の中にこそ、神様の愛と命と正義が宿って
います。
イエス様から離れたら、愛も命も正義もない。私達には何も残らない。イエ
ス様との交わりから離れたら、私達には何の希望もない。イエス様は天から
地上に降ろされたたった1本の命綱です。だから神様の救いが完成する「終わり
の日」が来る前に「真のブドウの木・イエス様につながりなさい。イエス様か
ら離れずに、イエス様の中に住み、イエス様と1つになりなさい」と聖書は
呼びかけます。
 私達は年をとったり、寝たきりになったりして、礼拝に集いたくても、集えなく
なる日が来ます。神様の言葉を聴けなくなる日、イエス様のお体と血潮を受け取れ
なくなる日が来ます。それがいつか分からない。そうなる前に、イエス様と1つに
結ばれておきたい。礼拝で語られる御言で、兄弟姉妹と共に分かち合うイエス様の
お体と血潮で、神様への愛と従順を貫いたイエス様のすべてで、私達の全身全霊が
満たされ、埋め尽くされておきたいのです。
待降節を迎え、イエス様が私達の中に日毎、新しく誕生されること、また私達が
イエス様の中で日毎、新しく誕生することを待ち望みます。と同時に終わりの日に
備えることを深く心に刻み込みながら、終わりの日を待ち望みます。そのため
に「恵みの礼拝の場」で私達はイエス様にタップリ養われて、今週も出かけます。
「あなたがたは、今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが、眠り
から覚めるべき時が既に来ています。今や私達が信仰に入った頃よりも、救い
は近づいているからです。主イエス・キリストを身にまといなさい」
(ローマ13:11、14)

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