日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私は復活であり、命である

説教

タイトル :「私は復活であり、命である
聖書   : ヨハネ福音書11:17-27
年月日  : 2017-11-5

マリアとマルタ、その兄弟のラザロが、ユダヤ地方のベタニアに住んでいました。
イエス様の働きを支えていた支援者だったのでしょう。イエス様も、彼らと親しく
されていたようです。でもラザロが重病との知らせを聴いていながら、イエス様は
すぐラザロのいるベタニアに向かおうとはしませんでした。イエス様が動き出した
のは、ラザロが死んだと、イエス様がご自分でお気づきになってからです。
イエス様がベタニアに着いた時、既にラザロは墓の中でした。死んでから四日も
たっていました。多くの人たちが、大切な兄弟を失ったマリアやマルタを、慰めに
来ていました。当時の葬儀は、遺族を慰めるため、1週間ほど、続いたそうです。
そこへイエス様が来られました。マリアは悲しみに沈んで、家の中に座り込んで
いましたが、マルタはイエス様を迎えに行ったと書いてあります。いつも一言多い
マルタです。今回も、やはり一言、イエス様に言わずにはおれませんでした。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。
「だから早く来てくださいと連絡したのに、どうして早く来てくれなかったの。
ラザロが死んじゃったじゃないの」と、マルタは心の思いを、遠慮なくイエス様に
ぶつけています。愛するラザロが死んで墓の中にいます。そのことは分かっている
けど、マルタはあきらめきれません。そしてイエス様に言っています。22節。
「しかしあなたが、神にお願いになることは、何でも、神はかなえてくださると、
私は今でも承知しています」。
マルタは、死んで墓にいるラザロを生き返らせることを、イエス様に願っている
のでしょうか。福音書には死人を生き返らせたイエス様の奇跡が記されています。
例えば、ヤイロと言う人の娘が死んだ時、イエス様が声をかけると、娘は目覚めて
息を吹き返しました(ルカ8章)。またやもめの1人息子が死に、棺が運び出される
ところにイエス様が出合わせ、1人息子を生き返らせています(ルカ7章)。こうした
話を、恐らくマルタは聞いていたのでしょう。それで「イエス様が頼むことなら、
神様は必ず聞いてくださるから、ラザロも何とか救ってください」と、イエス様の
助けを求めたのでしょう。
とは言え、死んだ者、既に4日も墓の中にいる者のためにこれ以上、何を求める
のか。何が出来るというのか。「マルタ、気持ちは分かるけど、あきらめなさい」と
周りにいた人たちは常識的に話しかけて、マルタを慰めたはずです。
するとイエス様に救いを求めたマルタに、イエス様が言われました。「あなたの
兄弟は復活する」。
イエス様は日頃、信仰者に与えられる命の恵みを、人々に教え、語っておられた
ようです。イエス様を信じる者は、終わりの日に復活する。死も罪もない栄光の体、
永遠の命と共に信仰者は、終わりの日に復活すると、人々に語っておられたので、
マルタは教えてもらった通りに、答えています。
 「終わりの日の復活の時に、復活することは存じております」。
「終わりの日に、信仰者が復活することは、私も聞いて知っています。でも私は
終わりの日まで待てない。ラザロが今、生きていないことが悲しい。ラザロが墓の
中にいるのが悲しい。終わりの日まで、ラザロと会えないのが悲しいんです」。
マルタが聴きたかったのは、求めていたのは、理屈とか説明とか説得なんかじゃ
ありません。ラザロは死んだけれど、彼が信仰によって、今も生きていると
いう確信、彼が復活の約束の中で、今も生きているという実感が欲しかった
のです。マルタは「終わりの日に復活することは存じております」と型通りに答え
ましたが、本音を言えば「遠い将来、ラザロが復活すること」より「今、ラザロが
生きていること」を、マルタはイエス様に切実に求め、願っていたのです。
こんなことを言うマルタを、「不信仰だ」と責めることはできません。信仰者では
なくても、大切な人、愛する人を失ったら、誰でもマルタのように願うのではない
でしょうか。マルタは兄弟のラザロを心から愛していました。だからこそラザロの
死を受け止めきれず、深く悲しむ彼女に、イエス様は言っておられます。
私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きて
いて、私を信じる者は、誰も決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
家族を亡くして悲しむ1人の女の前で、神様の尊い命の奥義が告げられています。
イエス様は、ご自分が何者であるかを今、ここで告げておられます。
「私こそが、終わりの日の復活であり、終わりの日、信仰者に与えられる
復活の命、永遠の命そのものなのだ」と、イエス様はマルタに明かしました。
 はるか遠くにあると思っていた終わりの日。いつ来るか分からない終わりの日に
起きる「信仰者の復活。そして信仰者に与えられる永遠の命」。
けれども復活は、終わりの日の出来事であると同時に、今、マルタの目の
前におられる「イエス様ご自身のこと」でもありました。
終わりの日の復活、永遠の命は、人の手には届かない、はるか彼方の神様
の奥義であると同時に、今、手を伸ばせば届くところにおられる「イエス様
ご自身」のことでもあったのです。
 イエス様は、「私と父とは一つである」と、宣言されていましたし(ヨハネ10:30)
「父が死者を復活させて、命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を
与える」(ヨハネ5:21)とも言っておられました。
つまりイエス様は父なる神様が持っておられる「死者に永遠の命を与えて
復活させる権能」「復活に関する全権」を、父なる神様から授かっています。
そこまでイエス様は、父なる神様と1つなのです。父なる神様が持っておら
れるものは、すべて同じように、イエス様もまた持っておられます。
 だからイエス様は、マルタに言ったのです。「私は復活であり、命である」と。
復活、永遠の命、終わりの日の出来事のすべてが、イエス様の中にあります。
と言うことは、イエス様を離れたら、終わりの日の復活も永遠の命もありません。
イエス様と結ばれていなかったら、終わりの日の復活の希望はないのです。
私は復活であり、命である」とは、イエス様がおられるところにこそ、
イエス様と結ばれている人にこそ、復活があり、永遠の命があるということ
なのです。
 「はるか彼方の終わりの日の復活を信じているけど、そんな理屈じゃ、今の私の
慰めにはならない」と思っていたマルタでしたが、彼女は今まさに「終わりの日の
復活と永遠の命」に、「復活であり、命であるイエス様」に出会っていたのです。
マリア、マルタ、死んだラザロもイエス様を信じてイエス様に結ばれた人々です。
だから死を越えて、彼らは皆、今も後も永遠にイエス様と共にいます。イエス様の
復活と命の中にいます。マルタとマリアは、死んだラザロと、墓の中と外で、離れ
離れになったのではない。彼らは、イエス様の中で共に生きています。
これはすべての信仰者に言えることです。イエス様を信じ、イエス様に結ばれ
ている、すべての信仰者が「復活であり、永遠の命であるイエス様」の中に
共にいます。イエス様の中に時間の壁はありません。私達は2000年前のペトロや
パウロと、今イエス様の中で共に生きています。私達は、先に天に召された多くの
信仰者と、今、イエス様の中で共に生きています。だからイエス様は「私を信じる
者は、死んでも生きる。私を信じる者は、誰も決して死ぬことはない」と、
おっしゃったのです。
この後、イエス様はすべての人の罪の借金を背負い、最低最悪で、神様から最も
呪われた者として十字架で死にます。十字架で死に、陰府に降り、墓に葬られます。
でもそのイエス様を、父なる神様が、最悪の死の中から立ち上がらせ、復活させま
した。永遠の命と体をもった栄光の主として、神様はイエス様を復活させました。
イエス様は死の中から復活なさいました。だからイエス様の中には、神様の命、
永遠の命、復活の命が充満しています。故にイエス様を信じ、イエス様と結ばれて
いるすべて人に、イエス様の中の「復活の命、永遠の命」が豊かに注がれるのです。
私達には肉体があり、信仰者でも日々痛みや苦しみを抱えて生きています。年を
とる毎に、痛みや苦しみは増して行きます。でも私の分の永遠の命、復活の命を、
イエス様が、しっかり預かっていてくださるとは、何と言う平安、何と言う
喜びでしょう。大津波に体が飲みこまれて無くなろうと、体が焼かれて骨やチリに
なろうと、私達から復活の命が失われることは決してない。終わりの日、私達に
与えられる「死よりも強い永遠の命、復活の命」を今、イエス様がしっかり
守り、預かってくださっているからです。この真実を知る時、今ある貧しさも
病気も弱さも死も恐くない。だからイエス様は聞きます。「このことを信じるか」。
 マルタは「イエス様こそ、終わりの日に世に来て、信仰者に命を与える神の子、
メシアと信じております」と答えました。では私達は何を信じ、何を求めて生きる
のか。富か権力か。残念なことに、この世の豊かさには必ず終わりが来ます。でも
永遠に終わらない豊かさがある。「復活であり、命である」イエス様です。故に
私達は、真の命の豊かさ、永遠の豊かさであるイエス様を信じ、イエス様と
1つに結ばれ、イエス様に従っていくのです。
 最後に、マタイ福音書からイエス様の言葉に聴きましょう。
「私について来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい
人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」
(マタイ16:24,26)。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional