日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

恵みのもとにいる

説教

タイトル :「恵みのもとにいる
聖書   : ローマ6:10-14
年月日  : 2019-2-3
神様の御子キリストは、私達と同じ姿でこの世に生まれ、生活してきましたが、
私達と全く違っていたのは、神様に背いて「罪を犯す」ことが生涯1度もなかった
点です。もちろんキリストのこの世での体は、私達と同じですから、傷つけば血も
流れます。実際、十字架につけられて、キリストは死にました。人が死ぬように、
またキリストも1度だけ死にました。命の源である神様に背き、神様から離れる罪。
命の源である神様から離れることで(罪を明かすことで)、死に至ります。
罪は死を連れて来る。罪と死はセットになってやって来ます。キリストは、
罪を犯すことはありませんでしたが、罪と死から逃れられない私達のところに、
あえて留まり、私達罪人の代表として、否、すべての人の罪を背負ったまま、
キリストは「罪人の死」を引き受けて、私達と同じように死んでくださいま
した。
そんなキリストを、神様は罪と死の中から完全に解き放って生かします。これが
キリストの復活です。罪と死に勝利したキリストは、もはや2度と死ぬことなく、
今も、これから先も永遠に、キリストは神様のために、神様と共に生き続けます。 
11節で「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・
イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と言っています。
言い換えると、「信仰者は、死から復活したキリストと結ばれているから、
罪に死んだ者とされ、神様のために生きる者とされていると考えなさい」と
いうことです。
このように言えるのは、信仰者が、父、子、聖霊なる神様の御名によって洗礼を
受けているからです。洗礼は、形だけの儀式ではありません。礼拝の場はもちろん
ですが、洗礼の場でも、人の意志や決意に先立ち、神様の全能の力が働いています。
人の思いや願いに先立って、圧倒的な神様の恵みが働いています。だから生まれて
間もない赤ちゃんにも洗礼が授けられます。洗礼は「神様の救いの御業・神様が、
人の思いや決断に先立って導いてくださる恵みの御業」です。
洗礼を受けることで、信仰者はキリストと結ばれますから、キリストの生き方を
たどりながら、キリストに倣って生きて行きます。従ってキリストが罪のためでは
なく、神様のために生きているように、信仰者もキリストと同じように、罪のため
ではなく、神様のために生きていくようにされていきます。
 昨年は2人の方が洗礼を受けられました。とてもうれしいことです。ここには、
洗礼を受けて何年も経っている方、まだ洗礼を受けていない方もいます。見た目は
区別がつきませんが、神様の前には、ハッキリ区別されています。どこが違うかと
言うと洗礼を受けることによって「自分の主人、自分の持ち主が変わります」。
これまでは自分は「自分のもの」でした。「自分が自分の主人」でした。でも
残念なことに自分と言うのは、エゴイストでガンコ。それなのに、イザとなると、
いい加減で頼りない。でも洗礼を境に、持ち主が「自分」から「神様」に変え
られます。 
洗礼準備会でいつも言うことですが、「洗礼は、古い自分の葬式であると同時に、
キリストとの結婚式です」。洗礼で、自分で自分を支えていた、その手を離します。
そして今までの古い自分が洗礼の水に沈められて死ぬことで、今度は神様が私達の
「新しい持ち主、主人」となってくださいます。だから洗礼を受けた人の主人は、
エゴイストな「自分」ではなくて「神様」です。洗礼を受けた人は名前も顔も、
変わりませんが、すでに「自分のもの」ではなくて、「神様のもの」とされて
います。
 「なるほどなぁ。洗礼を受けることで、自分の持ち主、自分の主人が、自分では
なくて、神様に変わるのか。洗礼によって自分の支配から解放されて、神様の支配
に移されるのか。そして信仰者は、キリストのように、神様のために生きるように
されていくのか」。 
ここまでは一応、頭で納得できます。でもこの世で生活する私達には、常に罪の
誘惑がつきまとうので、頭で納得した通りに、なかなか生きられないのが現実です。
例えば列車の指定席を買って座ります。隣の席が空いていたら、何のためらいも
無く自分の荷物を隣に置きます(隣の席の指定席は買っていないのに)。洗礼を受けて
信仰者になっても「自分だけ楽をしたい、得をしたい」という「罪の誘惑」は、
いつでも私達を支配しようと狙っています。そこで12-13節は警告しています。
 「従ってあなたがたの死ぬべき体を罪に支配されて、体の欲望に従うようなこと
があってはなりません。またあなたがたの五体を不義のための道具として罪に
任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として
神に献げ、また五体を義のための道具として、神に献げなさい」。
 「死ぬべき体」とは弱く罪に誘惑されやすい、やがては朽ちてしまう私達の地上
の体のことです。でも私達の弱い体も含めて丸ごと「神様のもの」として救うため、
キリストは、私達と同じ弱い体のままで死に新たな復活の体で甦りました。
ローマに手紙を書いたパウロは、コリントへの手紙で「体は、みだらな行いの
ためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」と言いま
した(1コリント6:13)。私達の地上の体は、年を取る毎に弱くなるだけでなく、若く
ても様々な罪の誘惑に負けて、自分だけでなく、周りの人たちをも滅ぼしてしまう
危うく、扱いにくいものです。だからこそ「主は体のためにおられるのです」と
パウロが言った通り、キリストは私達の体の救いのために、十字架で死んで甦り、
復活の体」を私達に用意してくださったのです。今ある地上の体は確かに弱い。
でもこの体には、「復活の体」と言う確かな救いの約束があります。たとえ
寝たきりで何もできない弱い体でも、その体は「キリストによる大切な救い
の約束を受けている体」なのです。だから私達の地上の体を決して粗末にしては
いけない。体の欲望に任せてはならない。悪いことをするため道具として、地上の
体を罪に任せてはならないのです。
13節は体のことを「道具」と言っています。道具と訳された言葉には「武器」と
言う意味もあります。
つまり大切な救いの約束を受けている私達の体を、欲望を満たすために、
悪を行い、罪を犯すための「武器」として使ってはならないのです。
罪を犯すための武器として体を使うのではなく、むしろキリストの後に続いて、
死からの復活と言う「救いの約束を受けている」大切な体を、神様に献げるのです。
そして罪と戦い、神様の正義を行うための「武器」として自分の地上の体を、
神様にお献げするのです。私達の本当の持ち主であり主人である神様の御用
のために、私達の体を用いていただくのです。
 私達の地上の体は、洗礼を受けて信仰者になっても、様々な苦しみの中で、罪の
誘惑に負けそうになります。「自分自身が神様のものにされた」ことを、忘れそうに
なります。でも「神様のものにされた自分」を「罪に任せてはなりません」(13節)。
「任せる」と「献げる」は同じ言葉です。つまり「神様のものであり、神様に献げ
るべき自分の体を、罪のために献げてはならない」と13節は言っているの
です。
確かに地上では苦しみや痛み、罪の誘惑があります。だからこそ信仰者の体には
復活の体の約束」という霊的(れいてき)な徴(しるし)が、キリストによって深々と刻みこまれている
恵みを、常に思い起こす必要がある。そして神様のものとして生きて、自分の体を
神様に献げていく必要があります。
「献げる」と言う言葉の元々の意味は、「用意する、備える、役立てる」と言うこ
とです。例えば礼拝で、献金をお献げするために、前もって私達は献金を用意して
おきます。お祝いのためにシワだらけのお金を渡す人は、いないでしょう。相手に
失礼だからです。だったら、神様への献げ物なら、尚更です。前もって新札を用意
しておいて、礼拝の献金に備えることが必要です。
同じように、私達の体が神様のための道具として、「献げられる」ように、
また罪と戦うための武器として、私達の体が「献げられる」ように、神様が
しっかりと、礼拝において「用意をして、備えてくださっています」。だから
礼拝が、大事なのです。私達の教会では礼拝は年に52回、夕礼拝を入れると64回
しかない。この礼拝で、神様が私達のために用意して、備え、働いておられるのを
忘れてはならない。
私達が頑張るのではなくて、礼拝で、神様が私達のために用意をしてくださり、
神様が充分、備えをしてくださるから、私達の体は神様の献げものとされて、14節
「罪は最早、あなたがたを支配することはない」と宣言していただけるのです。
更にこの宣言の続きを直訳すると「なぜならあなたがたは律法のもとではなく、
恵みのもとにいるからです」となります。
 私達は律法を守ったから、救われたのではない。ただ「キリストを信じる信仰
の恵み」によって救われたのです。そして私達に「キリストを信じる信仰に
よる救いの恵み」を用意し、与えてくださったのは、いつも私達を見捨てず、
愛し通してくださる神様です。「いつでも私達は、神様に愛されている尊い
恵みのもとにいます」。
私達は礼拝の度毎に、神様の愛の中に招かれています。そして神様の愛の中で、
キリストを信じる信仰をますます確かにされて、私達は神様の救いの恵みのもと、
神様の愛の恵みのもとに固く立たされます。だから礼拝は、神様の愛の恵み
への招きです。洗礼を受け信仰者になって、それで終わりではない。
礼拝において、神様の愛を全身にタップリ浴びて、キリストによる救いの
確信、信仰の確信を深められることによって、私達は神様の恵みのもとで、
ますます生かされて行きます。また礼拝においてこそ、自分の体が「神様の
聖なる道具、神様への聖なる献げ物」とされることを、私達は、ますます心
から願い、喜ぶ者とされていきます。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional