日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

信じる人は幸い

説教

説教

タイトル :「信じる人は幸い」 
聖書   : ヨハネ20:24-29
年月日  : 2020-7-5     
イエス様の12弟子に、ディドモと呼(よ)ばれるトマスという弟子がいました。死から
復活された日曜日、イエス様が弟子達に姿(すがた)を現(あら)わした時、トマスはいませんでした。
弟子達から「イエス様を見た」という驚(おどろ)きの言葉を聞きたのですが、トマスは信じ
ません。トマスはとても常識的(じょうしきてき)で、冷静(れいせい)な人だったのでしょう。彼は、イエス様の
手にあるはずのクギの穴(あな)を自分の目で見て、指(ゆび)を入(い)れないと、またイエス様の脇腹(わきはら)の
傷(きず)に自分の手を入れないと、決(けっ)して信じないと弟子達に言っていました。
 さて、その8日後、つまり次の日曜のことです。弟子達がまた家の中に集まって
いた時、家の戸(と)にはカギがかかっていたのに、再(ふたた)びイエス様が、弟子達の真(ま)ん中に
現(あら)われて「あなたがたに平和があるように」と言われました。つまり「神様が
共にいてくださる平和」「神様の赦(ゆる)しと和解(わかい)が共にある平和」を、イエス様が
弟子達に宣言(せんげん)してくださいました。この時、その場には、疑(うたが)い深(ぶか)い弟子のトマスも
いました。
 弟子達は、復活のイエス様とお会いするのは、これで2回目でしたが、トマスは
初(はじ)めてです。驚いたトマスは声も出なかったでしょう。そんな彼に言っています。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸(の)ばし、私の脇
腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)
 十字架で死んだイエス様が目の前に現われた。もう、それだけで充分(じゅうぶん)だったにも
かかわらず、イエス様は十字架の傷痕(きずあと)に、触(ふ)れなさいと、トマスに言われました。
トマスも他の弟子達も、耳(みみ)を疑(うたが)ったはずです。イエス様の姿(すがた)が見えなかったから、
「私はイエス様の十字架のキズに手を入れないと、復活なんか信じない」と平気で
トマスは言っていました。そのトマスの言葉を、イエス様がちゃんと聞いていた。
姿が見えない時からイエス様は弟子達と共にいて、すべてを見て聞いて知っていた。
死から復活したイエス様の測(はか)り知れない聖なる力を、誰もが感じて、畏(おそ)れたことで
しょう。十字架につけられて死んだイエス様が復活されて、死よりも強い新しい体、
カギのかかった家にも入れる不思議な体をもって目の前におられる。
イエス様は、まさしく主であり、神です。だからこそ、「信じない者ではなく、
信じる者になりなさい」とトマスに言ったのです。恐らくトマスはふるえながら、
床(ゆか)にひれ伏(ふ)しながら、イエス様に信仰を告白したのでしょう。「私の主、私の神よ」。
「イエス様こそが、私の主(主人)、私の神です」と、トマスは告白したのです。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。イエス様はこう言われましたが、
日本人の多くは、主イエス・キリストを信じていません。父、子、聖霊なる神様を
信じていません。キリストを信じていない人は、何を信じて生きているのでしょう。
「自分を信じて生きている」。立派(りっぱ)な自分ではないけど自分の感覚(かんかく)、自分の判断(はんだん)、
自分のフィルターを通(とお)り抜(ぬ)けたものだけを信じ、頼(たよ)りにして生きています。信じる
中身(なかみ)は、変わることもありますが、その時々に「よし、OK、気に入(い)った」と自分が
認(みと)めたものを信じて、頼りにして生きています。でも自分が認めていたとしても、
それは「自分という範囲(はんい)の中にあるもの」ばかりです。自分を超(こ)えた、それ以上(いじょう)の
ものではありません。
自分の判断を信じていた弟子達は、「私は主を見ました」と、イエス様の復活を
最初に告げたマリアの言葉を信じませんでした。弟子達も、私達も、 人は皆(みな)、風(かぜ)に
飛(と)ばされる花びらよりも軽(かる)くて、頼りない自分を信じて、生きています。弟子達も
私達も自分を信じる「自分信仰者」です。しかもトマスは「自分の目で見て、
手で触(さわ)って自分の能力(のうりょく)で確(たし)かめられる範囲(はんい)内(ない)で信じる」という条件(じょうけん)つきです。
このままだとトマスはイエス様の弟子にはなれません。彼の「自分信仰」を裏切(うらぎ)る
偉大(いだい)な出来事(できごと)が必要(ひつよう)でした。
そこでイエス様は、トマスにも現われてくださって、イエス様の復活の体の傷痕(きずあと)に
触(さわ)ることを赦してくださいました。何という譲歩(じょうほ)でしょうか。でもこれは甘(あま)やかし
ではありません。
トマスの中にある「自分信仰」がボコボコに破壊(はかい)されて、彼の「自分信仰」
が力(ちから)を失(うしな)って、カラッポにされるために、必要(ひつよう)なことでした。そのことが
復活のイエス様とお会いして、実際(じっさい)トマスに起(お)きたから、彼は自分信仰を捨(す)てて、
イエス様を信じる信仰を告白することができました。「私の主、私の神よ」。
イエス様の弟子でありながら、今までトマスが従う主、信じる神とは、「自分自身
のこと」でしたが、今こそ、告白の通り「彼の主、そして彼の神」はイエス様だけ
です。トマスは生涯(しょうがい)、彼の主であり、神であるイエス様を信じて、従う弟子として
生きたはずです。
疑(うたが)い深(ぶか)いトマスのためにイエス様がここまでしてくださる。うらやましいです。
でもイエス様は十字架に向かう前、「あなたがたを、みなしごにはしておかない。
あなたがたの所に戻(もど)ってくる」と弟子達に約束しておられました(14:18)。
 「あなたがたを、不信仰の中に置(お)き去(ざ)りにしない。あなたがたを不信仰の
まま放置(ほうち)しない。あなたがたが真(まこと)の信仰者となるために、私はあなたがたの
所に必ず戻ってくる」。イエス様は弟子達、そして私達に言ってくださっています。
私達はトマス以上に不信仰です。捨てたはずの「自分信仰」をゴミ箱から持ち帰り、
その中で眠(ねむ)りこける私達なのに、それでもイエス様は私達を見捨(みす)てません。私達が
再(ふたた)び信仰者として歩き出すまで、イエス様は何度でも何度でも、私達の所に戻って
きて、私達に寄(よ)りそって、立ち上がらせてくださいます。そして私達がイエス様を、
「私の主、私の神よ」と、心から告白できるように、助けてくださいます。
 トマスの告白「私の主、私の神よ」は大事(だいじ)です。「あなたは主であり、神です」
と漠然(ばくぜん)と告白したのではない。イエス様が自分と無関係(むかんけい)な主、無関係な神ではなく、
「イエス様こそ私のすべてを支配(しはい)し、私を真の救いに導(みちび)いてくださる方、
私にとって唯一(ゆいいつ)の主であり、唯一の神です」と、自分との関係を告白している
のです。そしてこの告白は「イエス様の救いの出来事」と「私達をも」つなげます。
つまりイエス様の十字架の死と復活、そしてイエス様が復活の命と体と共に
弟子達に現われたことは、私達と無関係の出来事ではなくて、私達のために
こそ、なされた救いの御業(みわざ)だと私達もまた心からイエス様を信じて、「私達の主、
私達の神よ」と告白できるようになります。
 自分の信仰をイエス様に告白したトマスに「私を見たから信じたのか。見ない
のに信じる人は幸いだ」とイエス様は言っています。
私達は当時の弟子達のように、復活のイエス様を自分の目で見ることはできませ
ん。しかし、それにもかかわらず、私達はイエス様を「私の主、私の神」と信じて、
告白しています。なぜでしょう。
聖霊が働いてくださるからです。復活のイエス様を見て、信じた信仰者たちは
1世紀(せいき)を越(こ)えて生き残れなかったでしょう。でもイエス様の復活を信じる信仰者の
群(む)れ・教会は、その後も増え続けていきました。そして21世紀の今も、これからも
増えて行きます。しかも彼らは「復活のイエス様を見ないのに信じる信仰者」
です。こうして信仰者が、教会が世界中に広がっていきます。すべて聖霊の働(はたら)き
です。
復活されたイエス様が天(てん)に昇(のぼ)ってから、弟子達に聖霊が降(くだ)ったペンテコステ。
あの時から聖霊に導(みちび)かれて、弟子達また信仰者の群れ・教会が、イエス様
こそ「私達の主であり私達の神」であることを、この世に向けて証言(しょうげん)して
きました。
一度も復活のイエス様を見たことのない多くの人が、聖霊に満(み)たされて、
イエス様の救いを宣べ伝える教会の証言を聞いて「イエス様を信じる幸いな
者」とされて来ました。ですから私達もまた「イエス様を見ないのに信じた
幸いな者」です。
 私達は終わりの日まで、自分の目で復活のイエス様を見ることはできませんが、
イエス様は私達を「みなし子」にしないため、私達に聖霊を送ってくださいます。
だから私達は聖霊が満ちあふれる教会の中で、礼拝の中で、聖霊の導きによって、
今、復活の主イエス様とお会いしています。
肉眼で見えることが、すべてではない。今、この場に、私達と共に復活の
主がいてくださることを、私達は信じて、礼拝をおささげています。そして
聖霊に満たされながら、イエス様から、救いの言葉を聴(き)いて、信じる恵み、
イエス様を「私の主、私の神よ」と告白する恵みをイエス様からいただいて、
「幸いな者」とされています。
更(さら)に、引き続き行われる聖餐(せいさん)式(しき)では、聖霊の助けを祈り求めながら、イエス様の
お体と血(ち)潮(しお)をいただくことで、私達はこの世にありながらも、「主であり、神である
イエス様」とますます固く1つに結(むす)ばれることを、心から喜び、信じる幸いな者と
されていきます。感謝です。
「耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧(まず)しい人は福音を告げ知らさ
れている。私につまずかない人は幸いである」(マタイ11:5-6)。

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