日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

あなたも弟子の1人か

説教

タイトル :「あなたも弟子の1人か」  
聖書   : ヨハネ18:15-27
年月日  : 2019-8-4  
 
 逮捕(たいほ)されたイエス様は、アンナスという元(もと)大祭司(だいさいし)のところに連れて行かれました。
彼はこの年の大祭司カイアファのしゅうとで、隠退(いんたい)した後も、相当(そうとう)、権力(けんりょく)を持って
いた人物のようです。ペトロと名前を記していない1人の弟子が、イエス様の後を
追って、大祭司のところにやってきました。
詳しいことは書いてないのですが、1人の弟子は大祭司の知り合いと言うことで、
屋敷(やしき)の中庭(なかにわ)に入りましたが、ペトロは門の外に立っていました。でも弟子が門番の
女に話して、ペトロも中庭に入ってきました。イエス様を逮捕した大祭司の中庭に
入って緊張(きんちょう)しているペトロに門番の女が「あなたも、あの人の弟子の1人では
ありませんか」と言いました。門番の女はイエス様と一緒にいるペトロをどこかで
見かけたのでしょう。ふいをつかれたペトロは、慌(あわ)てて「違う」と言い返しました。
ペトロも、もう1人の弟子も、イエス様が気がかりで、大祭司の中庭まで入って
来ましたが「イエスの弟子の一人ではないか」と門番に聞かれたら、ペトロは即座(そくざ)に
否定(ひてい)しました。この時のペトロの言葉を直訳(ちょくやく)しますと「私じゃない、(私は弟子
の1人なんかじゃない。私は違うんだ)」と言う強い言い方です。
そう言って危機(きき)は乗(の)り越(こ)えたと思ったのか、寒さをしのぐために炭火(すみび)を起こして
いた屋敷の僕や下役と一緒に、ペトロは火にあたっていました。深夜(しんや)の冷(ひ)え込みが
厳(きび)しい時、ペトロは炭火の温(ぬく)もりに包まれ、炭火の灯りに照らされていました。
その一方で大祭司アンナスはイエス様に、弟子や教えについて尋問(じんもん)してしました。
大祭司が弟子について尋ねていますが、これは他の福音書では見られません。彼は
イエス様の言葉から、弟子たちの不信仰を暴(あば)いて逮捕しようとしていたようです。
でもイエス様は、そのことを知っていたから17章で「弟子達を守ってください」と
くり返し父なる神様に祈っていました(17:11, 15)。
 大祭司にイエス様は言っています。「私はいつもユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の
境内(けいだい)で、公然(こうぜん)と語っており、ひそかに話したことはない。なぜ今更(いまさら)、私を尋問する
のか。それより私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねたら良いだろう」。
大祭司は返す言葉が見当たりません。恐らく大祭司本人が、イエス様の語る言葉を
妬(ねた)みと敵意(てきい)をこめて注意(ちゅうい)深く(ぶかく)聴(き)いていた、ある意味「熱心(ねっしん)な聴衆(ちょうしゅう)」だったのでし
ょう。
 その時、イエス様の言葉を聞いた下役の一人が「大祭司に向かって、そんな返事(へんじ)の
しかたがあるか」と言ってイエス様をビンタしました。ユダヤ人にとって、大祭司
と言うのは、神殿の最も聖なる場所「至(し)聖所(せいじょ)」に入って、イスラエルの民全体の罪
の赦しのために年に1度、神様に近づき、犠牲(ぎせい)の血(ち)を献(ささ)げることができる聖なる人物(じんぶつ)、
尊(とうと)い人物でした。だから「そんな人に向かって無礼(ぶれい)な口をきくな」と下役は怒(いか)って、
イエス様を叩(たた)いたのです。でもイエス様は、下役に静かに言い返します。22節以下。
「何か私が悪いことを言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいこ
とを言ったのなら、なぜ私を打つのか」。下役は何も答えていません。答えられなか
った。 
正しさ、神様の正しさが、イエス様にはあるからです。イスラエルの民ど
ころか、過去、現在、未来、すべての人の罪が赦されるよう、動物の血では
なく、神様の御子であるご自分の血を、「十字架の至聖所」で神様に献(ささ)げる
イエス様こそが最も聖なるお方であり、また唯一(ゆいいつ)「真(まこと)の大祭司」なのです。
イエス様はいつでも、どこでも、神様の正しさを公然と語ってこられましたが、
大祭司も下役も、そのことに全く気づかなかった。彼らは神様の正しさではなく、
自分達の正しさを誇(ほこ)り、「真の大祭司イエス様」を見下して悪を行っていました。
神殿の至聖所に入り、神様に近づく大祭司なら、イエス様の中にこそ神様を見る
べきでした。イエス様が語った言葉こそ、神様の言葉として聴くべきでした。
でも残念なことに大祭司たちは自分達の正しさに思い上がり、神様と1つになって
おられるイエス様を、罪人として見下して尋問し、ののしって叩き、縛(しば)ったまま、
大祭司カイアファのもとに送っています。
さて25節から、大祭司の中庭にいるペトロの場面に戻ります。ペトロは大祭司の
僕や下役たちと火にあたって体を温めていました。するとそこにいた人々が、火に
照らされたペトロの顔を見て、「お前も、あの男の弟子の1人ではないのか」と
言いました。ペトロは弾(はじ)けたように、「違う」と、彼らの言葉を打ち消しました。
ここも原文の意味を補(おぎな)って読むと、「(ペトロは)それを否定して、(イエス様と
の関係を否認して)私じゃない」と言ったのです。
でもそんなペトロに追(お)い討(う)ちをかけるように、決定的な証言が出ます。大祭司の
僕で、ペトロが剣で片耳を切り落とした人の身内が言ったのです。「園で、あの男と
一緒にいるのを、私に見られたではないか」。もう逃げられません。にもかかわらず
ペトロは再び、自分がイエス様の弟子の1人であることを、確かに否定しました。
その時、ニワトリが鳴(な)きました。
この後のペトロの様子を、ヨハネ福音書は書いていません。でも彼は思い出した
はずです。つい数時間前、イエス様に「あなたのためなら命を捨てます」と強気
で言ったペトロに、イエス様は「私のために命を捨(す)てるというのか。はっきり
言っておく。ニワトリが鳴くまでに、あなたは3度、私のことを知らないと
言うだろう」と予告されていました(13:38)。
「自分にだけは絶対(ぜったい)にありえないことだ」と確信していたのに、イエス様の予告
通り、ニワトリが鳴く前に、ペトロはイエス様の弟子であることを1度だけでなく、
3度も否定しました。
「自分はイエス様の一番弟子だ」と言う誇りを、ペトロはもっていたはずです。
ですから何があってもイエス様に従っていく弟子としての覚悟(かくご)、熱意(ねつい)、誠実(せいじつ)さは、
誰にも負けない自信がありました。でもそんなものは、今、粉々(こなごな)に打ち砕(くだ)かれて、
何の役にも立ちません。「イエス様の弟子の1人である」ことを、ペトロは自分から
否定して、イエス様との関係を無視(むし)して、踏(ふ)みにじってしまいました。でもこれは
ペトロに限ったことではない。人は皆、イザとなると自分を守り、イエス様を切り
捨ててしまう。「イエス様の弟子であること」も、簡単に切り捨ててしまいます。
 私達もペトロと同じ状況で、「あなたもあの男の弟子の1人か」と問われたら
何と答えるのか。「私はペトロと同じことはしない」と言いきれるか。「私はイエス
様の弟子の1人だ」と命をはって言い切れるか。私は自信がありません。そうです。
自分の思いや努力だけでイエス様の弟子の1人であり続けることはできない。
私達は弱いし、悲しいほど自分勝手(じぶんかって)で、情けないほどズルく、イエス様さえ裏切(うらぎ)る。
じゃあどうしたら、こんな中途半端(ちゅうとはんぱ)な私達が、イエス様の弟子になれるのか。
でもそういう私達なのだと、最も良く知っておられるのが、イエス様なの
です。私達の弱さ、ズルさ、愛のなさを、知り尽くしておられるからこそ、
イエス様は真の大祭司としてご自分の命を十字架で献げ、私達がイエス様の
弟子の1人として生きていけるようにと、神様にとりなしてくださるのです。
イエス様の弟子としてふさわしい誠実(せいじつ)さ、信仰の強さ、豊かな愛を私達が持って
いるからではない。そんなものは私達にはない。私達はイエス様の弟子として全く
ふさわしくない。それなのにイエス様は「あなたがたが私を選んだのではない。
私があなたがたを選んだ」と、「私があなたを弟子に選んだ」と私達1人1人
に向かって宣言(せんげん)してくださる(15:16)。 
また私達は、イエス様が願っておられること、命じておられること、イエス様の
新しい掟・「互いに愛し合うこと」を実行できない。イエス様が神様の奥義(おくぎ)を私達
に語りかけ、打ち明けてくださっているのに私達は悟(さと)りきれない。それでも「私は
あなたがたを友と呼ぶ」とイエス様は言ってくださる。
だから不信仰な私達が、イエス様の弟子の1人として選ばれて、友として
親しくしていただけるのは、私達の手柄(てがら)ではない。すべてはイエス様からの
大胆(だいたん)な「赦しの恵み」と、神様からの「限りない愛」が、私達に与えられて
いるからです。
私達は弱く、小さく、愚(おろ)かな存在(そんざい)です。でもそういう私達を見つけて、愛して、
友と呼び、弟子の1人として選んでくださったイエス様がおられます。
そのイエス様は、この世ではなくて、神様に属(ぞく)しておられます。そしてまた
イエス様の弟子とされた私達も、この世ではなくて、神様に属しています。
ですからイエス様に倣(なら)って、弟子の1人とされた私達も、この世を無責任(むせきにん)に
生きることはしません。イエス様に倣って私達も、この世で生きる人たちを
軽蔑(けいべつ)したり、無視したり、粗末(そまつ)にしたりしません。イエス様に倣って私達は
この世で生きる人たちを、友として愛して生きることに挑戦(ちょうせん)します。
イエス様が弟子の1人である私達を、いつも神様にとりなして祈り、手入れして
くださるから、また聖霊を送って「イエス様に似た者」へと日々養ってくださる
から、私達はペトロと同じ弱く小さい者だけど、イエス様に倣って、目の前の人を
イエス様と共にとりなして祈り、寄(よ)り添(そ)って生きて行きます。そして「イエス様の
弟子として生きる幸い」を生涯、この世に現わして行きます。

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