日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

あなたたちの王だ

説教

タイトル :「あなたたちの王だ」  
聖書   : ヨハネ18:38b-19:16
年月日  : 2019-10-6  
 
ユダヤ人に捕(と)られえられたイエス様は、ローマ総督(そうとく)ピラトの尋問(じんもん)を受けましたが、
ピラトはイエス様が、無実だと言うことを仕事柄(しごとがら)、見抜(みぬ)いていました。そのため、
イエス様を訴えるユダヤ人たちの前に出て行き「私はあの男に何の罪も見出せない」
と宣言しています。そしてイエス様を釈放するため、ユダヤ教の過(すぎ)越(こし)祭(さい)では囚人(しゅうじん)を
1人釈放(しゃくほう)する慣例(かんれい)をピラトは持ち出しました。ピラトが釈放したかったのは無実の
イエス様です。だからピラトはユダヤ人たちに言っています。「あのユダヤ人の王を
釈放して欲しいか」。しかし人々から戻ってきたのは「その男ではない。バラバを」
と言う大声の叫びでした。バラバは強盗だと書いてありますが、バラバはローマ帝
国の支配に反抗して殺人を犯したとも伝えられています。そうなると、ユダヤ人に
は英雄ですが、ピラトには厄介(やっかい)な危険(きけん)人物(じんぶつ)であり、釈放したくなかったはずです。
 しかしピラトは高まる人々の叫びが暴動につながることを恐れて、抵抗できず、
イエス様を罪人として兵士に渡します。イエス様は全身をムチでたたかれました。
肉や皮が裂(さ)け、全身血まみれのイエス様の頭に、兵士は面白がって茨(いばら)の冠(かんむり)を乗せ、
王の衣装として紫の服を着せると「ユダヤ人の王、バンザイ」とはやしたてビンタ
し、侮辱(ぶじょく)しました。ピラトは人々の前に現われて「見よ、あの男をあなたたちのと
ころへ引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見出せないわけが分かるだろう」と言うと、茨の冠と紫の服をつけたイエス様を連れて来て「見よ、この男だ」と言
っています。
 イエス様を見た祭司長や彼らの下役たちは、群集(ぐんしゅう)を扇動(せんどう)するかのように大声で、
「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けます。そこでピラトは「あなたた
ちが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見出せない」とハッキ
リ告げています。それに応(こた)えユダヤ人たちは言いました。「律法によれば、この男
は死罪にあたります。神の子と自称したからです」。
 イエスと言う名の不思議(ふしぎ)な男が、自分を「神の子」といった。尋問したわずかな
時間でしたが、イエス様と接したピラトは、イエス様の中に通常の人間とは違う、
何かを感じ取っていたのでしょう。「この男がウソをつくだろうか。自分を神の子と
言ったのは、真実ではないのか」。ピラトの心は、聖なるものへの畏(おそ)れに震(ふる)えます。
だから官邸(かんてい)に入ると、ピラトはイエス様に聞きます。「お前はどこから来たのか」。
本当は「お前は天から来た神の子なのか」と聞きたかったピラトです。答えようと
しないイエス様にピラトは食い下がって「お前を釈放する権限(けんげん)も、十字架につける
権限も、私は持っているのだから、お前の正体を明かせ」と必死で言っています。
するとイエス様は「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはず
だ。だから私をあなたに引き渡した者の罪は、もっと重い」と言って口を閉ざしま
した。
 「生死がかかるこの時、神から与えられた権限と言いだす彼は何者なのか。彼は
本当に神の子かもしれない。私は今、大きな罪を犯そうとしているのではないか」。
異邦人のピラトにも信じる神がいたはずです。でもピラトの心の中でイエス様への
畏れがドンドン大きくなって行くばかりです。だから何とかイエス様を釈放しよう
としたその時、ユダヤ人たちは決定的な言葉を、ピラトに浴びせました。
 「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝(こうてい)の友ではない。王と自称する
者は皆、皇帝にそむいています」。
 この世でピラトが一番恐れていたことを、ユダヤ人は言ったのです。「自分を王と
言っている男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。あなたはローマ皇帝を
敬愛していない」。その一言でピラトが最も恐れていたのは神ではなく、彼が持って
いるこの世の権威や名誉ある人生を、簡単に取り上げる皇帝だと気がつきました。
ピラトが決して逆らえない弱みを、ユダヤ人たちは知っていました。彼らの言葉を
聞いたピラトは無実のイエス様を裁判の席につかせました。それは過越祭の準備を
する日の正午で、過越祭の食事のため小羊が殺される日です。ピラトがイエス様を
指して、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、ユダヤ人たちは「殺せ、殺せ、
十字架につけろ」と叫びました。「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)とイエス様と
出会ったヨハネが預言して言ったことが、これから実現していきます。
 ピラトは最後の抵抗として「あなたたちの王を、私が十字架につけるのか」
と人々に言い返します。皮肉にも異邦人で、真の神様を知らないピラトの口を
通して、イエス様は「あなたたちの王だ」と何度も示されています。しかし
神様に仕える祭司長が信じがたい発言をしました。「私達には皇帝の他に、王は
ありません」。
「私達の王は神様ではなく、ローマ皇帝です。皇帝の他に王はいません」。これは
信仰を捨てた言葉、神様を否定して、冒涜(ぼうとく)する言葉です。しかし祭司長に同調した
ユダヤ人も同じ言葉を何度も叫んだでしょう。またもや「皇帝」という印籠(いんろう)を突(つ)き
つけられたピラトは、目に見えない聖なる畏(おそ)れより、人の目に見えるこの世の
恐れを、優先させてしまいました。そして十字架につけるためイエス様を彼らに
引き渡します。
かつてイスラエルの民が、自分たちを治める人間の王を欲しがり、それは御心に
かなわないことでしたが、神様は許しました(上サムエル8章)。神様こそ真の王で
あるにもかかわらず、神様を退けて人間の王を持つと、どうなるか(行きつく所まで
行って来い。痛い目にあって来い)を体験させるためでした。
 そして今、人々の前に、真の王としてイエス様が、神様から遣(つか)わされているのに、
ユダヤ教の指導者たちを筆頭(ひっとう)に、人々は「十字架につけろ」と叫んで、イエス様を
ピラトから奪(うば)い、手に入れました。しかもそのためピラトに突きつけた決め台詞(せりふ)は
「私達には、皇帝の他に王はありません」でした。祭司長はこの言葉を口に
したことで「人を治める真の王は神のみ」という真実も自分たちがこれまで
神の民として養われてきた信仰の歴史も、すべて丸ごと、否定してしまった
のです。 
皇帝は人で神ではない。それを知っているのに、憎いイエスを殺し自分の思いを
遂(と)げるためなら、どんなことでも言う。祭司長が、信仰者が、神様を否定する言葉
でも平気で口にする。信仰者たちが群れを成して、神様が遣わした御子イエス様を、
自分たちの真の王を、十字架につけることに熱狂している。
 ここは恐ろしい場面です。信仰者なのに、聖なる方が目の前にいても拝(おが)むことも
なく、何の畏れも感じない。むしろ聖なる方を邪魔に思い、抹殺(まっさつ)しようと熱狂する。
そしてこれを実現させるためなら、ローマ皇帝を「私達の王だ」と臆面もなく叫び、
証言してしまう。残念ですが、この場面は、私達と無関係と言いきれない。私達も
この世の利益や立場を守るため、イエス様を、真の王を、無視します。神様の真実
にも平気で背を向けます。目に見えない神よりも、目に見えるこの世の得を選ぶ。
人は自分の欲を捨てきれない。いつでも自分の利益が一番大事。それが私達です。
だから人は、人を治める真の王にはなれない。たとえ人が立派な王となっても、
その王権(おうけん)は長続(ながつづ)きしない。ダビデやソロモンの王権でさえ40年で終わってしまった。
でも神様の王権は違う。人が否定しようが、無視しようが、神様の王権は昔も今も
これからも永遠に続きます。そして「神様が王となって治める」神様の王権を、
見える形で具体的に、この世に現わしてくださったのが、イエス様です。
 「ほふり場に引かれる羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、
彼は口を開かなかった。とらえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。多くの人
の過(あやま)ちを担い、背(そむ)いた者のために執(と)り成(な)しをしたのは、この人であった」(イザヤ
53:7-8,12)。
 「この人」とは、まさしくイエス様のことです。神様の御子イエス様は、ご自分
の利益を求めることなく、敵さえ愛して、罪の赦しのために、ご自分の命を十字架
で献げて執り成します。そしてすべての人が神様の子供とされることを願って、今
も1人1人の前にへりくだり、1人1人に仕(つか)えてくださっています。
このイエス様が私達の王なのです。私達だけではありません。私達がイエス
様を知る以前から、イエス様の愛の奉仕を受けていたように、まだイエス様
に気づいていないあの人、この人にとっても、イエス様は王です。イエス様
は「あなたたちの王」なのです。
「この世の王権」は富と権力で人を上から支配し、君臨(くんりん)します。でもイエス様が
示してくださる「神様の王権」は、神様の愛と赦しをもって人に仕え、また相手が
誰であれ、神様の命と平和の中で、惜しみなく人を新しくして生かします。
だからこそ教会の礼拝は決して「この世の王権」に支配されてはならない。
また礼拝が常に「神様の王権」で満たされるよう、この世では、未完成で、
途上にあるすべての教会、すべての信仰者たちは、「私達の救いのために、
十字架で死に、3日目に復活して天に昇った神様の御子イエス・キリストこそ
私達の王、あなたたちの王、すべての人の王だ」と礼拝において、いいえ、
全生涯において、どんな誘惑にも負けないで告白して生き抜くことが、求め
られています。

 

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